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理髪師の冒険



[序]

私の結論は,"かのひと"は,太陽のような人だった,ということである。
「あなたは,猫の眼を見たことがありますか。」
"かのひと"は,ほんの少しだけ,左に首をかしげたように見えた。それは,いつものようにと言うべきなのか,その時も,ちょっと困ったように,それとも少し申し訳なさそうに,優しく奥深い微笑みを,私のような者でなければわからない程度の変化で,たたえたのだった。
姿が隠れても,夜になっても,太陽がそこにあることを人々は知っている。
いつも遠くから眺め,その光に育まれ,怖れて怯えながらも,心の中で話しかけたり,願いごとをかけたり,憧れ,ときには親近感を覚えることさえもある。人々は光なしには生きられない。地球の帳に守られながら,こっそりと太陽を眺めるのである。
私が"かのひと"と呼ぶのは,"彼"と呼ぶのも"彼女"と呼ぶのも"あの子"と呼ぶのも"あの方"と呼ぶのも"かの人"と呼ぶのもそぐわないと思うからである。
あの時,"かのひと"がそんなふうに戸惑ったのも,無理もないことだった。
私の質問をうけて,たぶん,まず猫の姿を思い出すことができ,それから猫の眼はどんなだったか,という記憶を辿ろうとしたのだろう。
その姿が多くの人々を失望させるのだ。多くの人々には私ほどの観察力がないから。
私自身もあの時は答えをせかしてしまったから,"かのひと"は,声に出して会話をするために,記憶を辿ることを途中でやめたのだろうと思う。
私は右手の甲を向けて「爪は常にのびている。」…と語ってみせた。「全てのものは…」すると"かのひと"が言った,まだ猫の眼をみていない,かれらときたら眼が変化するほどの長い間じっとしていてくれることがなく,ただでさえ見つけるのが難しいのに,見つけたと思ったらふいっとどこかへ行ってしまう,と,"かのひと"の声は私にはいつも無邪気な声に聞こえ,何の悪意もなく,子供とも年寄りとも例えようがないどこか愉快な素振りなのだった。
太陽は寂しがらない。"かのひと"はどうだったろう。
私は自分が傲慢になっていることに気付いた。
そして"かのひと"自身も,何かを思い起こしたように見えた。
私は"かのひと"は"多くの人々"にとって近づくのが恐ろしい太陽のような存在だったのだと語る。
しかし,太陽ほど無防備で何者をも拒まない天体は無いのだとも,私は思うのである。
1.

ひとは儚い希望を抱く。幻のような希望を。
私は叶える。ほんのいっとき,鏡の前で,あなたの笑顔を見る。
あなたの望みは,なんなのか。
あなたはどこへ行きたいのか,あなたの故郷はどこなのか,今,あなたはどこから来たのか。
1つのビジョンが浮かんだ。
奇妙な原生林。見たことのない生き物。混沌の空間。
1-2.

あなたはそこからやって来たのか。
いや,違う,そこを"通って来た"のか。
この原生林はなんなのか,この原生林の向こう側には何があったのか。
あなたはそこで何をされたというのだろうか。
しかし,あなたは覚えていない。
1-3.

彼は頭を抱えて崩折れた。
床の上でうずくまり,悶え苦しんだ。
「わたしは,自分がわからない。」
いったい彼をこんなに苦しめるものは何なのか。
さきほどまで笑顔でいたかと思えば,突然何かを思い出すようなのである。
彼は苦しんでいた。
もはや様々な人々の苦しみに押し潰されていた。
「記憶はつきまとう。
 自分の意思に関係なく,思い出される。奇襲のように。」
言いながら私は気が付いた。
いや,違う,それは彼自身の苦しみだった。
己の記憶というものが,彼をこんなにも苦しめるのか。
少しすると彼はふらりと立ち上がった。
憔悴した様子で,背中を向け,歩き出した。
そして,少しはなれた場所にある段差に腰掛けると,こちらを向いて,申し訳なさそうに,笑顔を見せた。
傷は人を強くはしない。
ことさら深いものは,心を弱くする。
心を癒す優しい記憶には,心を砕く酷い記憶に,覆われてしまう性質がある。
しかし,心を癒す優しい記憶は必ずその光を増し続けていくもので,いずれは強い光となって惨い記憶を幻惑の彼方へと押し消すほどまでにいたる。
「どうしました,無理に笑う必要はありませんよ,少なくとも私の前ではね。」
ほんの数歩だけ彼に向かったが,それ以上は近付かずに,あまり抑揚のない調子で静かに言った。
しかし,この時すでに私の心は,詰めよって問いただしたい好奇心と,それを抑えようとするせめぎあいを始めていたので,その声には不可解な冷静さもともなってしまったのかもしれない。
彼はそれを感じ取った。"無理に"ではなく"自然に"微笑んだのだった。
弱い人間にとって,心を癒す優しい記憶が強い光となり惨い記憶をも包み込む,その"大きなきっかけ"をもたらす現象は,何であろうか。
私は常にそれを考える。
彼にとってはどうなのだろうか。
「大丈夫。やすらぎは,必ずあなたにも訪れます。」
そう,必ず。
私は自信が揺らぐのを感じた。
1-4.

いつか見たことがあるようなアスファルト色の表通りに,あまり高層ではない建物が並んでいた。車道は賑やか,歩道もそこそこ,バスの窓からは,首都圏風の,ありふれた光景が見えていた。
バスが信号で止まると,窓の下の歩道で1人の若い女性が強風にあおられて何かを落とした。なぜだろうか,それがとても気になったので,その場で料金を払ってバスを降り,その何かを拾った。
懐かしい雰囲気がするノートだった。子供が使うような装丁の…。ノートについたほこりを払っていると,風がページをバラバラとめくった。垣間見えたのは子供の交換日記のようだった。辺りにはもうあの女性はいなかった。
わたしは立ち並ぶ建物を注意深く見上げながら歩道を歩いた。周りよりも大きめの目立つ建物があるはず,そう思った。大金持ちか大企業か,そんなふうに聞いていた。
少し歩くと,それらしき建物が目に入った。想像していたほどの大きさではなかったが,どことなく雰囲気の違いが感じられた。おそらくそれは多くの人々にとっては景色に紛れこむ数多いビルの1つにすぎない程度のものだった。
入口は,通りに対して正面ではなく,歩道を歩いてきた者にちょうど向かうような角度になっていた。他のビルよりも控え目で目立たない,こじんまりとした品の良いガラスの自動ドアだった。それを囲むせりだした壁の上に,薄い黄土色の猫がふてぶてしい顔付きで佇んでいた。
わたしは猫にノートを差し出した。猫は受け取らずにどこかへ行ってしまった。自分がなぜ猫にノートを渡そうとしたのかは不思議だったが,他の事に気持ちの大部分が奪われていたので,何も考えずにビルの中に入ってエレベーターに乗った。おそらく建物の中層くらいまでが"この大企業"のオフィス,上層は"役人"が占めるようになり,その辺りのどこかにオーナーの居住区への入口があるに違いないと思った。
中層までのエレベーターから降りると,上へ向かう道を探しながら"役人"はいないだろうか,と見まわした。"役人"の中には家族と親しい者もいたはずで,もしかしたらわたしのことも知っているかもしれないと思ったのだが,そういった人物を見つけることは出来なかった。人々は知らない人ばかりだった。しかし誰もわたしが進むことを咎めはしなかった。きっとわたしから何か"そういう雰囲気"を感じ取っているのだろうと考え,わたしも気にせずに堂々と進んだ。
自宅と呼んでも良いはずの建物の中で迷い,出迎えてくれる人はない。
わたしに記憶はないが,かつてはここに住んでいたのだろうか。エスカレーターに乗ると,わたしは幼いわたしが上層にあるであろう居住区にいる姿を思い浮かべてみた。
しかしその姿が「思い出」なのか「単なる空想」なのか,もはや区別するすべもなかった。
改装を重ねてすっかり様相が変わっているのかもしれない,或いはそもそもここに居たことなどないのかもしれない。記憶がなくても会えばわかるはずだと思っていた家族も,会ってもお互いに気付かずにすれ違ってしまうのかもしれないし,或いは…或いはもうすでにすれ違ったかもしれない,とも思った。
ふと見ると,エスカレーターから見える高い壁のでっぱりの上に,猫がいた。
わたしの家族は,本当にここにいるのだろうか。
ここは普通ではない建物のようだと,薄々気付き始めていた。気が遠くなるのだった。
手に持つノートは人には見られたくないような気がしていた。落とし主の女性がこのビルの中にいるかもしれないと思っていたが,実際,女性は下の方のオフィスにいた。わたしは上へ進むことを誰にも咎められなかったが一般のオフィスへは進もうとすると立ち入れない圧迫感があったので,遠くから眺めただけだった。そして,このノートは彼女に返す物ではなく,わたしに渡された物なのだと気付いたのだった。
ノートの中を見ると,わたしが子供のころに友人達と交わした交換日記のようだった。楽しく無邪気に不器用な内容が散らばっていた。この友人達は今どこでどんな暮らしをしているだろうか。忘れた頃に夢に出てきては,夢の中ではわたしだけが大人でも,みなあの頃のままにふざけあってくれた。
エスカレーターが進み,乗り換えながらどんどん昇っていくと,人影はまばらになっていった。
重役の個室や重要な会議室などが並ぶ上層フロアに入ったようで,廊下に赤いカーペットが敷かれているエリアまであった。
閑散として,不自然だった。
階段を探してさらに上へ進んだ。不自然さは増していった。
一般客と思われる人達がこのようなエリアをチラホラと歩き回っているのも不自然だった。
それもごく普通の普段着の人が多く,買物袋を下げている人もいた。
そもそも表通りから見えた外観はこんなに大きかっただろうか。
わたしはそろそろ家族の居住区…プライベートエリアへの入口を探すことにした。
1-5.

それから彼は,特別な通路はないか,立ち入り禁止の扉はないか,見覚えがある場所はないだろうかと探しながら,何気なく見つけた階段を上がると,奇妙な四角い螺旋の部屋に突き当たったという。
部屋に入ると正面に鏡があることに気付いた。見ると若い男性が映っていたので自分が男性だとわかったという。部屋の中を昇るとだだっ広いガランとしたフロアに出た。床はエリアごとに段差があり,段差部分には手すりが設置されていた。所々にノートパソコンが起動している状態で置かれていた。きちんとテーブルに置かれている物もあれば手すりの上に置かれている物もあり,とにかく不規則にあちこちに置かれている光景は不自然だったが,あちこちでスーツを着た人達がくつろぎながらそれらのノートパソコンを覗きこんでいたから,きっとこのビルの人達や来客も共有する休憩や娯楽施設を兼ねたフロアで,ちょっとした斬新なデザインなのかもしれないとも考えたという。一部には複数人がテーブルを陣取ってニヤニヤしながらノートパソコンを操作している様子があるのが気になったので,彼も手近なものを1つ見てみると,その理由がわかったという。操作をする者が求めるものを映し出したり作り出したりしているようだった。利用者の大半は適当にいじって切り上げる人や,友人とランチをとりながらひととき楽しむ者達だった。館内アナウンスは上品なおっとりした声で一般的な案内をしていたが,時々「悪質な利用者の追放にご協力を」と呼びかけることもあったという。
壁沿いに一段高くなった廊下があるエリアにはこぎれいなテナントが並んでいた。食事の店や服を売る店など様々で,どこも雰囲気は良さそうだったが,彼はたまたま聞こえてきた会話に興味を持ち,更に上の階へ行く事にしたという。
1-6.

わたしはこのビルの中を歩きながら,つやのある美しい床や,ガラスや壁面,そして所々に設置されている鏡など,そこに映り込む姿を想像するようになっていた。それはそのまま周りの者達が見ているであろう自分の姿でもあった。
 服は…よれよれかな。髪は…赤いかな…砂漠のように焼けているのかな。
 目はどうだろう…身長はどれくらいだろう…肌は…表情は…。
奥へ進む人はみなここより更に上の階を目指していた。
エレベーターに乗ると,いったいどこからこんなに人が集まったのか,などと疑問に思う間もないほどの大群になり,目的のフロアに到着すると皆それぞれに決めている店があるようですいすいぐんぐんとあっとう間に散らばって行ってしまった。
通路は入り汲んでいて案内板もなく,どこへ入ったら良いものかあてもなく歩いた。
どの店も確かにセンスが良かった。だがほどほどというものがない程にどこも個性が強くぶっとんでいるので近付く勇気が出ない程だった。
どの店もその雰囲気で"ここはあなたの故郷ではない"と主張していた。
みな胸をはり満面の笑顔で誇り高く自分の店に入り,出てくる客にいたってはどんなに個性が強くても"似合っていない"ということがなく,憧れるほどにキラキラしていた。"あなたも早くどこかに入ったら?"そんな風に微笑みかけてくる人たちもいた。
どこからか"一番奥"という声が聞こえた。
出てくるものなど何もない,失われていくだけだったわたしの記憶だというのに,"一番腕がいいのは一番奥にいる年寄りのはずだ"と語りかけてきていた。
 年寄り?どんな年寄り?
一番奥…一番奥…一番奥…通路を進みながら,ここではない,ここもまだ,といろいろな店を覗いた。そのうち店がまばらになり人通りも少なくなってくると,ところどころに通路で休憩している店主もいたので,どこかに年寄りがいるかを尋ねてみると,奥の方に何人かいる,というのだが,道順や,どれくらい距離があるのかまでは,とりあってくれなかった。
1-7.

そして,そのあとすぐ,その一角に迷いこんだ。
廊下の壁には年配の主たちの額縁がいくつか並んでいた。わたしは一番の年寄りは誰だろうかと探した。額の中の年寄りたちは髪も髭も白く顔の掘りも深かったが,わたしが想像していた年寄りほど年をとっていそうな写真はなかった。
戸惑いながら歩き,辺りを見まわすと,ふと,1人の男と目が合った。
その店は正面がガラス張りになっていたので,見ようと思わなくても中の様子が見えた。わたしは何気なく立ち止まっただけだったのだが,一番奥に立っていた男がふいにこちらを見たのだ。
男は額縁の人々と同じように頭に巻いた布をかぶっていて,薄い青や,くすんだ水色,それに灰色や白色の布なども部分的に重ねた服装をしていた。髭面,深いしわ,しっかりとした体格,ふしくれだった指,いくつかのアクセサリーも身につけているように見えた。
その時,たまたまとはいえ覗いてしまったことを咎められるような気がして少し気まずさを感じたのだが,逃げ出す訳にもいかなかった。
射貫かれるような視線に恐怖を感じながらも,この人こそが長老だと思ったからだった。
わたしはガラスの外から「あなたが一番年上ですか」と訊ねた。
中には先客が1人いるようだった。その客がこちらを見ては男に何か言いながらいたずらっぽく笑うので,わたしは「違う」という答えを期待しそうになった。
廊下に並んでいた額縁の人々と比べても,少しは年上なのかもしれないがそれほど年齢差があるようには見えず,なによりわたしが抱いていた年寄り像ともだいぶかけはなれていた。
しかし男は「そうだ」と答えた。
1-8.

店を出ていく先客は,さっきとは別人のように雰囲気が良くなっていて,お前も俺みたいになれるさ,と笑いかけてくれた。するとわたしも人並みに心がときめいてきたので,淡い期待を夢見るように目を閉じた。
目を開けると,目の前の鏡に,濃い色の髪をきっちりとまとめた人物が映っているのが見えた。髪の色が変わっていることには気がついたが,そんなものはどうとでもなるのだろうと思った。
予想外の変身に驚いたが,喜びも感じた。わたしもこんな姿になれるんだ,この姿で出歩いたら確かに面白そうだ,と。
だが奇妙なことに,鏡の中の紳士の顔は,目を閉じる前に見たわたしの顔ではなかった。よく見てみようと鏡に近付いて,表情をいろいろと変えてみた。鏡の中の紳士の顔も同じように動いた。これはやはり自分だ。では化粧かもしれないと思った。しかしどう見ても,年齢も,目鼻立ちも,皮膚の色も,さっきまでのわたしではなかった。
「気に入ったかね。」
主が得意そうに横に並んだ。なかなか斬新だろう,と言いながらわたしの前に来ると,気にいらなかったかね,と言い直した。
わたしは機嫌よく,いえ,と答えた。そして,先客の男性もガラリと変わりましたよね,と言いながら,鏡の前を歩いてみた。身体の感覚も変わっていた。
「どうしたのかね。なにが気になるのかね。」
鏡に顔を近づけて執拗にあれこれやって見ていたのが気になったらしく,主の立場ならそれももっともだと思ったので,理由を話した。
するとわたし以上に主の方がわたしの説明に不思議そうだった。
「…そうか,そういうことなのか。」
わたしはあらためて鏡に映っている自分を見た。目を閉じる前に見た自分ではない。
「どういうことなんだね。」
「いえ,いいんです。」
この時はそう答えるしかなかった。
あのバスを降りる前の記憶はもうない。このビルに入ってからの記憶も薄れ始めている。
今確かに思い出せることは,エスカレーターで想像したのが小さな女の子だったこと,螺旋の部屋で見たのは青年だったこと,そしてただ歩くだけの時でさえも自分というものが一定していないように思われて,まるで地に足がつかないような,ふわふわした感覚がつきまとったこと。だからわたしは自分の姿があんなにも気になったのかもしれない。しかしそれでもわたしは自分のことを不自然だとは思わなかった。そういうものなのだと心のどこかでは…或いは心の外の別の自分が…わかっているようだった。その感覚は周りの目を気にする不安なものでありながらも,どこか楽しく愉快なものでもあった。
わたしの姿は固定していないのだ。
先客の雰囲気が変わったのは先客と主が意図してのことだった。
わたしの場合は自分の意図でも主の意図でもなかった。しかし…。本当にそういえるのだろうか…。
「どういうことなのかね。」
もう一度主が言った。どう説明したら良いのだろうか。いやむしろ,今ずっと一緒にいたはずの主でさえも変化に気付かなかったのなら,無理に伝える必要があるのだろうか。
「なるほど。あなたはちょっと違うようだ。」
主も知識を探っているようだった。
「わたしの記憶は次々と消えていきます。わたしには記憶があるんです。」
これでは的を射ていないと自分でも思った。
「ああ,そうじゃないな,時間の流れ…,そうです,時間の流れです,あなたにとっての時間の流れとあなたにとっての記憶なのかもしれません。」
「時間の流れと,記憶か。」
主が言った。
いや,固定していない訳ではない。わたしは確かにわたしのままのようである。
そう,主の言うように,わたしはちょっと違うのかもしれない。わたしにとってみればこれが当たり前で,他の人々にとってみればわたしだけが違うことになる。勿論,他の人々は絶対に気が付かないのだとすればこの考えは当てはまらないことにもなるのだが。
店を出る時に,入口に立っていた先客とすれ違った。
彼は陽気に言った。
「俺はわかるよ。もっとも俺は忘れてしまうだろうけどね。」
店を出て数歩歩くと,わたしの姿はまた変わっていた。今は若い子供のようだった。
「気付きましたか?」
「いいや。」
陽気な先客は,少し歩調を合わせて,
「良い友達になれそうだが,俺達が会うことはもうないんだろうな。」
と微笑んだ。
名残惜しく思えたが,後を追いはしなかった。
最初に見た時の嫌悪感を思い出すと,その温かさは不思議だった。
1-9.

「上の階には美容室があるの。とてもセンスがいいのよ。」
「ほら,このエレベーターだ。ちぇ,だめだ,進めない,満員だ,行っちまった,急ごう,次のに乗るぞ。」
「親切な人達も,友達になった人達も,そこに着くと,どんどん行ってしまうんです。彼らは置いていこうとして置いて行くのではありません。振り向いて,こっちだ,お前も来い,あなたもおいで,と言ってくれます。しかし必ず間に人の波が流れこんで引き離されてしまうのです。凄い速さで動いていく。追いつこうとしても追いつけないのです。そして,見失ってしまう…。」
「主たちは,誰にも入る店があらかじめ決まっていることを知っている。ひやかしだと思ったわけではないよ。ただ答えようがなかったのさ。態度がぎこちなかったのは,あなたに興味が湧いたんだろうね。」
「だから皆,あんなに複雑な所を,まるで一直線のように進んでいたのですね。」
「実際一本道なのだよ。他の者にとっては…。」
「……,誰も迷わないはずの場所で,わたしはうろうろ迷っていた,だから皆からは奇異に見えたのでしょうね。」
「心細かったかい。」
この時かのひとは初めて"自分の"感情をみせたのだと私は思う。
「誰も迷わない場所で,自分だけが迷っているのは孤独なものです。」
1-10.

原生林には,湖があった。
広い広い原生林の中にいくつもある湖のひとつだった。
水面は月を映しだし,白と黒に輝いている。
月は常に形を変えている。
しかし空も地上も,その影響を受けてはいない。
見上げる空に星はなく,月のほかはただ黒かった。
原生林は,時間の経過で昼と夜が移り変わるのではなく,場所ごとに変わっていた。
この湖の辺りは夜でありながら夜ではなく,月の明かりにも左右されておらず,視界は透明だが遠くは見えず,暗く薄明るいが輪郭はくっきりと浮かび上がるかのようだった。
かのひとは湖のそばで静かに佇んでいた。

「あなたは,わたしが来ることがわかっていたのですか。」
ある時私の店でかのひとはこんな質問をした。
「行くべき店がわかるのは客自身だけなのだよ。誰がどの店へ行くのかまでは主たちは知らない。」
「皆輝いていた。故郷に包まれていた。しかしわたしは,どの店へも入り難かった。」
「最初は,私を見て,がっかりしたようだったね。」
「いえ,それは…,あの…,想像とはあまりにも違っていたから。ここへ来るべきだということしかわからなかったのです。」
「それに,懐かしさも感じなかったのだね。」
「……,そのことについては,わからないんです,懐かしさは,記憶から生まれるものだと思うのです。わたしには記憶がないのですから,どこを見ても懐かしいと思わないのは,もっともなのかもしれないんです。」

またある時,私はふいと現れたかのひとに,どこから来たのかと尋ねた。
本人もよくわからないようだったが,振り向くと,どうやら店の奥の扉から出てきたようだった。
その扉の向うはどうなっているのか,どのようにして来たのかと尋ねたが,かのひとは覚えておらず,かといって確認しようにも,もう扉の中には戻りたくない様子だった。
そこはかつて先代が,開けてはいけない,入ってはいけないと言った扉だった。
時が来るまでは,そう言い残して,先代は消えた。

かのひとの姿が変わる間隔は次第に短くなっているようだった。
秩序は崩れ始めていた。それとも,すでに崩れてしまっていたのかもしれない。
私は始め,一定時間ごとに歳をとる呪いのようなものなのではないかと推測した。そしてその呪いを発する源のようなものが扉の向こうにあるのではないかとも考えた。先代の言葉が,触れてはならない恐怖としてその扉を私の心に突き刺して残り,いつでも何をしていても,背後にあるその白い存在が私の心を凝視しているかのように思えてならなかったのだった。
しかし姿の変貌は必ずしも年齢を重ねていくわけではないようで,外見も年齢も様々で,規則性もなく,てんてんばらばらのようだった。
そこで私はなぜ私や他の人々にはその変化が見えないかを考えて彼に告げた。あるとき彼は時間と記憶が絡んでいるのではないかと言っていたが,確かに私も含む人々の記憶がまるで紙を折り畳んだり切りばりでもしたかのように調整されるとすれば今目の前に見える事象が当たり前のように今の今までそうだったことになる。「生物,とりわけ人間の脳にそれが強く働くとしても不思議ではない,人々の記憶はそういったことの積み重ねで成り立っているのだから。」と。
では彼の記憶はどうか。私も彼も"人々"とは言い難い。私については人々が「地上」とか「この世」とか呼ぶ性質の生物ではない。彼については,そういった生物だといっても良いようだが,やや型からははずれている。いつか「今になってようやくわかったんですよ。」彼はそんなふうに,"ちょっと違う"ということがはっきりわかって自覚してからはかえって楽になったのだと言っていたことがあった。
私が傲慢にも,自分にも"調整"が生じていることに少なからず衝撃を受けたので,「あなたもまた例外ではないのではないか」と尋ねると,彼はそれまで私に語っていなかっただけで,自身はすでに気付いていたようだった。
「おそらくわたしの時間はてんてんばらばらなんです。そのてんてんばらばらを一本道としてとらえるように…たぶん,わたしの記憶がわたしの中で個の秩序を持って流れるように時間と記憶が切りばりのように整理整頓されていたのだと思います。」
「今はされていないのかね。」
「いえ,しかし…。」
彼は丁寧に言葉を選んで説明しようとしているようだった。私の傲慢さ,愚かさのために,そこまでの負担を強いてしまっていた。私は改めて鏡の自分の姿を見た。私がこのような体たらくでは,彼が安らぎや,故郷の懐かしさを見出すための道標になれるわけがなかった。むしろ彼の方が私を導いていた。
彼,かのひとは確かに歳をとっているのだった。尋常ではない早さでくるくると経過している。そしてそれはもう整理整頓されてはいない。時間と記憶が,あるがままにいたいと望み始めている。自身も今ではそれに気付いて時間の流れに委ねているようだった。
いや,何者かから何かをされたわけではない。
今,彼に訪れているのは……。

私は扉を開け,一歩を踏み出した。
摩訶不思議な世界に目がくらみ,けたたましい獣の声に威嚇されながら,自分をしっかりと保つことに集中した。色あざやかな植物たちと,澄んだ水色の空が私を出迎えた。
夜空の中を漂う天地のない空間や,勢い良く流れる青い川,照りつける太陽,黄色い大地,緑の草,橙色の幹,おそろしく風のない原野,時間はなく,距離は感じず,秩序もなく,それでいてしっかりとした秩序に守られている時間の連続が,歩く者の空間を織り成していた。

遠くから,近付いて声をかけようかどうか,静寂をやぶることを躊躇して迷っていると,かのひとが私の方を見て言った。相変わらずいたずらっぽく,愉快でおおらかな素振りだった。
「わたしの謎はもう解けたはずです。それとも,まだここを探検しているのですか。」
私は湖に歩み寄り一呼吸おいてから穏やかに答えた。
「ここは興味深い。」
「この世界はしっかりとしています。あやふやなあの世界とは違って,居心地が良いのです。」
「あやふやなあの世界か…。人々が"現実"と呼ぶ世界のことだね。」
「その世界も,あなたの世界も。どこも実体がない世界です。この世界は確かにしっかりとここにあるのです。」
「この世界が,しっかりと,ここにある……。」

かつて,疲れ果てたかのひとに,私はかける言葉もなかった。悲しみに暮れるかのひとは,独り黙々と考えこむことがあった。それは世界を遮断しているのではなく,世界に溶けこもうとしているかのようだった。世界の息吹を感じ,世界の思考を取り込み,ひたすらに悲しみ,悔い,生じる怒りに流れを任せたり,柔らかな光に喜びをゆだねたり,手探りで命の林をかき分けてはその中にあるものを魂の中に読み込み,向こうに表れる心臓を真っ赤に染めるのだった。包み込む手はときに震え,ときには優しさに涙があふれ,ときには過ぎ行く時間がてのひらの中に球体を浮かべた。

「髪は,長さを変え,形を変え,色を変え,切ってもまたのびる,髪は様々に姿を変え,生まれ変わるが,髪であることに変わりはない。」
過ぎ行く時間は髪の毛のようなもの。移り変わる連続は月のようなもの。生まれ変わる命は星々のようなもの。
「そしてあなたは,理髪師だ。」
あの時彼は,私の言葉に,にこやかにそう応えたのだった。思わず言葉をつまらせるほどに,私の心は暖かさに包まれた。
「しかし,髪にも終わりがあるとしたら…。」
すると彼は,なんだそのことか,という具合に何の気なしに答えた。
「もう大丈夫ですよ。」
彼は立ち上がった。
「わたしは故郷へ帰ることができるんです。」
あとはもう,その時を待つだけだから,どう,また面白い姿にしてくれないかな,と言って,彼,かのひとは鏡の前に立ち止まった。

かのひとは私に湖に映った満月を指した。
空の月は常に姿を変えている。湖の月は一定して姿を変えていない。
「ここの月は美しいんですよ。」
ときおりさざなみが表面をゆらした。
かのひとはそれを見て何を思っていたのだろうか。
ふっと月が消えた。
1-11.

「では,わたしはもう行きます。」
1-12.

私は日の光が照り返す黄色い大地を思い出す。
そこはいかにも活力に満ちた場所である。
静穏の沙漠に緑の葉の木々,それに澄んだ空と太陽だけのように見える。
だがいざ歩き出すと,青空の下に,実に様々の光景が点在している。高潔のごとく高い崖,広野,自由に飛びまわる鳥,真白の砂,塩,棘を出す植物,冷たい小川,照らされていても熱くない石,遠くに見えるどこかの山,小さな花々,…地上のどこにも何かが暮らしている痕跡は見当たらず,空を飛ぶ鳥ですらここで暮らしている様子ではない。
小さな植物たちの命の息吹が空間を満たしていた。砂粒や石ころや青い空でさえも確かな個性を持っていた。静かな静かな場所なのである。
この静寂で活力に満ちた場所の,すべてのものは変化し続けている。私はそれを,ただ変化と呼ぶ。少しずつ少しずつ,見えないだけの変化が続いている。時が止まっているかのように佇んでいる植物も,石も,砂も,一度この世界を離れ,しばらくして足を運んでみると,この目にもようやくその変化を見つけることが出来る。時の流れとはかくも主観的でかくも俯瞰的なもの。何もいない,澄んだ水の小川,透明でありながら,透明でない,速く流れながら,留まっているかのような小川。遠くに見える鳥。決して近付かないかと思えば,ふいに目の前に降り来る大きな鳥。同じ場所にある太陽。決して沈まぬ太陽。声もなく,音もなく,風の吹かぬ大地。足跡は風によって消されないのならいつまでも残るかのように思えた。しかし足跡はいつしか消えているのだった。ひとつひとつの存在が変化している証だった。
私が扉の中でかのひとを何度目かに見つけた時,かのひとは先代に会ったことを教えてくれた。それがこの場所らしかった。
この場所で私と先代は再会した。
先代は私が扉を開けるのを待っていた。
店の奥に存在する白い扉への恐怖は,先代の言葉が植えつけたものではなく,私が勝手に思い込んだものなのだといましめられもした。
今の私には,もし"かのひと"が目の前に現れれば,その変化を認めることが出来るだろう。しかしもうそれはない。もう二度と"かのひと"は私の前に現れない。

エネルギーは循環している。それをエネルギーと呼ぶならば。
万物を成し巡り巡る,"存在するもの"にも"存在しないもの"にも。
"我々"もエネルギーから構成されており,空間も身体も魂も心も光線も物質も素も,どれひとつとして例外ではない。
永久の存在のように思われているエネルギー。己の終わりを悟った時には,何を想うのだろう。
先代と私はしばらく語り合った。
消え行く存在は,ただ消えるのである。それ以上はなにも知らされない。
最後に先代はこう言った,これでやっと代変わりできる,あなたがこのままずっと扉を開けないのではないかと心配していた,と。手招きして案内すれば簡単なこと,待つ手間もはぶける,だがそれではなにも伝えることができない。「あなたが生み出しあなたの足かせになった虚栄の恐怖心に,これからも常に思いを馳せるのですよ。」
消えゆく存在は,何を望むのだろう。
先代は,けして突き放さずに教える穏やかな老女だったが,あの扉だけは,どんなに過保護でも,私に開けさせるしかなかった。時が来るまでは,そう言い残したのは,つまりいつでも良かったのである。あの時すぐにでも扉を開けて追いかけて行ったって良かったのだ,勇気さえあれば。
先代と"かのひと"は共に消えた。
私はときおり原生林を"探検"しては,先代と共にみせた"かのひと"の表情を,心に思い描いている。

[完]


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理髪師の冒険はフィクションです

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