<indexへ抜けます>  前のページ  次のページ

理髪師の冒険



10-1

公園の上空に,得体の知れない巨大なものが浮遊してきた。
そして雨を降らせた。

人々は屋根がある場所に避難した。
そこが壊れたら別の屋根の下へ,
そうやって園内を逃げ回った。

やがて日が傾き,暗くなると,
雨は青や緑の光線のように輝いて見えた。

雨は屋根の弱い部分を打ち砕いていった。
逃げ遅れて雨に打たれ倒れた者もいた。

私は宮殿の方を見た。
外壁の向こうには,大きな建物の黒い輪郭が浮かび上がっており,
いくつかの小さな窓からは明かりが漏れていた。

10-2

最初に現れたのは風船のようなものだった。
青空に,一つ一つ色の違うカラフルな風船がたくさん漂ってきた。
人々はそれを見上げてもなんとも思わなかった。

次第に,もっと大きな,丸みを帯びた立方体に近いものが,どこからかいくつも浮遊してきた。
一つ一つ風に乗って不規則だったが,いくつかが不思議な隊列のように並んでいるものもあった。
人々はそれを見て,テレビで紹介されていた未確認飛行物体を思い出した。
もっと近くで見ようと出かけていく家族もいれば,
なるべく外に出ないようにする家族や,避難していく家族もいた。

こんなことが各地で起こり,
始めのうちは,そんなことが繰り返されていた。

10-3

「いつからあそこに埋まっていたのか,無理もない。」
「他にも埋まっている物はあったが,ぼろぼろに壊れていた。持ち帰れそうなのはこれだけだった。」
背中に三対の翼を持つ像だった。
顔立ちは人間離れしており,翼は大型の鳥類のものに似ていた。
「宇宙人かもしれないわね。」
「天使だと思うけどなぁ…。」
「君の言う天使とはなんだ。神の使いか?ではその神はどの神だ。」
「すまない。私には天使に見えたんだ。だからこそ持ち帰りたくなった。」
「こういう姿の天使が登場する神話もあるが,それでこれが天使だということにはならない。」
「これを埋めたのはいつ頃の人達かしら。それがわかれば調べようもあるのに。」
これは,大昔だ。他に埋まっていた物よりもずっと古い。
ただの直感といえばそれまでだが,私にはそうだとわかった。
「なあ,何かがいる感じがするだろ?」
「像に何かが宿っているというのか?」
「いや,像にではなく,……像を見ている…,そんな気配がしないか。」
「しないね。」
「発掘品にはそういう感覚がつきものよ。でも錯覚だと思うわ。」
像を発掘した男と,それを調べることになった者達が宮殿の一室に集っていた。

10-4

像を発掘した男とは何度かコンタクトを試みた。
彼は私の存在を感じ取れるようだったからだ。

彼は自分の部屋で,像に向かって話をしていた。
「なあ,元の場所に返してほしいか?それとも,掘り出されて嬉しいか?」
彼は像の気持ちを知りたがっているようだった。
その翌日,彼は友人を1人呼んで,こう質問した。
「この像をどう思う?」
彼はこの像が何なのか,なぜ埋められていたのかなどを心配していた。
その会話の中で,彼はチャドと呼ばれていた。
二人の会話は結局,宮殿に持って行って調べてもらうという結論に達した。

崩れかけた岩山には遥か昔の遺構があるといわれていた。
岩山は資源の採掘のために無計画に中を空洞にされつつあった。
崩壊が進む前に調査をしたいと考えたチャドは,数人の仲間を連れて岩山に潜入した。
岩山の内部は昔の通路と最近作られた空洞とが入り混じっていた。
採掘関係者に見つからずに探索するのは無理だとわかった彼らだったが,
チャドは山腹に見えていた崩れかけの小さな横穴が気になっており,
あきらめきれずに帰り際,大急ぎでその部分の土をよけた。
するとさほど深くない場所から女性用と思われる小物入れなどが見つかった。
更に掘り進めると,そのそばから男性用の装飾品と思われるものと,
表面に細かい損傷のある『天使像』が出てきた。
像は彼の掌ほどの大きさだった。
チャドはこの時,これらは大昔の家族のもので,その身分や生活程度まではわからないが,
何か事情があって大切なものを埋めたのではないかと感じた。
或いは単なるタイムカプセルかもしれないが,その場で考察している暇はなかった。
追手に見つかった仲間たちが,チャドに声をかけてから山肌を滑るように駆け降りていった。
チャドは『天使像』を懐に入れ大急ぎで穴に土をかけて仲間たちに続いた。

チャドと呼ばれた男が友人や宮殿の者達と話しているのを聞いた限りでは,
おおねむこのような経緯のようだった。

10-5

言葉を伝えるにはどうしたら良いか,思考錯誤した。
人間には私の声は聞こえておらず,姿も見えていないようだった。
私は何にもさわれなかった。
だが,壁をすり抜けることは出来ず,建物の中に閉じ込められてしまうこともあった。

私が資料室にいる時に,チャドが入ってきて戸を閉めてしまった。
資料室から出られなくなった私は『天使像』をよく見ようと無意識に手をのぱした。
すると手に取ることが出来た。
手に取って観察しているうちに,この像の使い方がわかった。
なぜわかったのかはわからなかった。
ただわかったのだ。
しかし像には損傷があるので,その能力は完全ではないようだった。
像は小さな机の上に置かれていた。
私は像に向かって語りかけた。
すると,チャドが室内を見回した。
そして,像を見た。
私の声が聞こえるのは聞こうという気持ちが強い者だけのようだった。
ただ,人間以外の生き物は像がなくても私に気付く者が多かった。
チャドは発掘した像を天使の像だと思っていた。
彼が像を見て抱いたのは恐怖や警戒心ではなく,興味と愛着だった。
彼は像を宮殿に置いて帰るのが嫌になって,こっそり持ち帰ろうとした。
調査の結果を教わることを条件に一度は宮殿側に寄贈を申し出たものの,
調査団の反応を見て,気が変わったようだった。
私は一日くらい調べさせてみたらどうだと思ったので,
像とチャドを交互に見ながらそう考えていた。
するとそれをチャドが感じ取ったようだった。
その時の私の声は彼自身の直感のように聞こえたのだと彼は後に言っていた。

彼は像と私を混同しているようだったので,
私は彼に,像は道具にすぎないことを教えた。

10-6

宮殿の資料室に一泊二日だけ像を預けた結果わかったことは,
像が作られた時代は推測できず,材質もよくわからないということだった。
ただ,像には少なくとも二種類の土が使われているようで,
そのうちの一種類はあの岩山の土らしかった。
それは単に付着したというのではなく像の材料として使われており,
岩山の土で作られている部分と,そうではない何かで作られている部分とが,
緻密に織り交ざっている構造らしかった。
それ以上は,像を壊さないままでは調べられなかった。
わからないということがわかったのは収穫だ,とチャドは言い,
像は寄贈しないことにしたので,調べてもらった謝礼を支払って像を持ち帰った。

岩山の土だと聞いた時に,私の心にはある家族の情景が浮かんだ。
星空を背景にあの山のシルエットが見える。
森林に囲まれた家の庭から親子が見ている。
両親は中年で,子供は小さな女の子だ。
小犬のようなペットと,小鳥のようなペットもいる。
自分たちがここに住んだ痕跡を残したいという感傷から,
それぞれが,大切ではあるが置いていっても良い物を選び,
それらをあの山の中腹に埋めることにした。
この家と土地は何者かが奪うであろうからだった。
見つかったらゴミにされるかもしれない,それよりも,
いつも見ていたあの美しい山に残す方が心を穏やかにできた。
この時私の心に浮かんだのはここまでだった。

10-7

巨大な浮遊物体が公園に雨を降らせた時,
私は人間の姿で園内にいた。
何を目的にするでもなく,しいていえばその姿に慣れるための散歩だった。
園内には,休憩所や売店の軒先,そして日陰を作るための屋根やガレージなど,
雨をよけられそうな場所はいくつも点在していた。
あの低空飛行の何かが空に現れた時,それを演出だと勘違いした人はいないようだった。
私の視界に入っている誰もが恐怖の表情でその銀色の姿を見上げていた。
雨に降られて屋根の下へ走りこむと,雨が尋常ではないものだとわかった。
看板や外灯などが雨に打たれて落ちるのが見えた。
雨は移動しながら,降ったりやんだりした。
頭上の屋根が耐えられそうになくなると,雨がやんだすきに別の屋根の下へ駆けこんだ。
振り返ると雨が降っていて,私のすぐ前で,崩れるように倒れた者がいた。
周りの者達は「もう手遅れだ」「君まで雨に当たってしまう」と言った。
私は自分が逃げることに気を取られ,逃げ遅れた人がいるのに気付かなかった。
また雨がやみ,そのすきに移動しようとした人が間に合わずに雨に打たれたのが見えた。
私はその人に走り寄った。
その人は小さな子供に覆いかぶさるようにうずくまっていた。
私が子供を上着にくるんで抱き上げると,その人は地面の上に体を崩した。
私はそのまま屋根の下へ駆け込んだ。
周りの者達が子供の無事を喜び私に何か言ったが,
私は動けなかった。

10-8

私は考えていた。
あの浮遊物体は何だったのか。
下から見上げていたから視界は建物に遮られ,全体の姿はわからなかった。
私は雨が降ったりやんだりしたことを思い出した。
あの銀色の物体が攻撃してきている,あの状況ではそう考えるのが自然だった。
だが,あの銀色の物体が雨を遮った可能性もある。
そこまで考えた時に,私は自分が元の,身体のない状態に戻っていることに気が付いた。
破損した像がテーブルの上に置いてある。
来客用の立派な椅子に腰掛けてそれを眺めているチャドが見えた。
うつろな感じだ。
寝不足なのだろうか。
すると,顔を上げて「いるのか」と言った。
『私のことか』と答えると,彼は立ち上がって,いるんだな,無事なんだな,と室内を見回した。
ここは宮殿の一階,いくつかある応接間のうちの一室だった。
夜なのだろうか,薄暗い。
壁は絵や幕で鮮やかに飾られている。
棚の上には大きな花が花瓶に太く束ねられて置いてある。
扉が一つあり,扉の向かい側は建物の外郭に沿った大きな窓のある連絡通路になっていて,
連絡通路と部屋とを隔てる壁は開かれていた。
中庭からの外灯と月の明かりが大きく射し込み,つやつやとしている硬い床を青白く照らし出していた。

子供を助けた男性が倒れた。
だが,どうすることもできない,そうしてしばらく見守っていると,
皆の見ている前で男性が消え,この像が現れたそうだ。
助かった子供がそれを見て「天使だ」と言った。
その一言で皆はその像に対して恐怖ではなく愛を抱き,像を助かった子供に持たせた。
破損のひどい像を手に取った子供が「助けたい」と言い出して,誰に見せれば直せるかと皆にきいた。
誰にもわからなかったが,子供は突然「宮殿に持っていく」と言い出した。
雨がやむと,周りにいた大人たち数人が母親を医療施設へ担ぎ込み,
そして子供を宮殿まで連れていった。
その時ちょうど,宮殿の裏口から数人の大人たちが出てきた。
それを見た子供が「日焼けの濃い男の人」と言った。

日焼けの濃い男はその像を直して返すと子供に約束してしまった。
ええかっこしいだ。
それとも,そう答えれば像を取り戻せると思ったからだろうか。
正直言って,その両方だ,とチャドが答えた。

10-9

人々は,神や天使の声を聞きたがっていた。
それで彼らは人々が想像している天使の姿に似せた像を用意し,そういった機能を持たせた。
人々が国を造ると,彼らの家がある場所は,彼らが不法に占拠していることになってしまった。
住み続けるには国に対価を払って土地を『所有』しなければならないと宣告された。
彼らの心は悲しみで押し潰されそうになったが,時代が流れたと考え,立ち退くことにした。
あの岩山には遺跡が眠っている。
いや,岩山だけではなく,そこかしこに眠っている。
彼らと人々にとっての『よき時代』と共に。

うたたねしていたチャドが目を覚まし,また「いるのか」と部屋の中を見回した。
『いるよ。』
起こしてくれよと苦笑いした彼に,私も考え事をしていたからと応えた。
「あの子はなぜ壊れた像を宮殿に持って来たのかな。」
『君がここに居ると思ったからだよ。』
「宿の部屋から像が無くなったんだ。
 それでここの連中が何か知らないかと思って来たんだけど,何もわからなかった。
 あの子が像を持って来た時,俺がいる時で良かったよ。」
『君が部屋を閉め切ったまま眠ってしまったからだよ。
 でも起こしてまた暴れられても困ると思ったんだ,あの姿なら自分で戸を開けられたし。』
「なぜいつも眠っている時だったんだ。」
『その方が集中できたから。君がいない時か,眠っている時か。』
チャドは口を開けて何か言葉を返そうとしていた。

窓の外の朝焼けを見て,私はヒヤリとした。
まずい,こうしてる場合じゃないはずだ。
でも,何がだろうか。
思い浮かんだのがあの山だった。

『チャド,山に行きたい。』
チャドがきょとんとした。
『像は壊れている。私は何にもさわれない。ドアの一つも開けられない。』
まだきょとんとしている。
『聞こえていないのか…。』
「いや,聞こえている。会話機能はまだもちそうだな。」

一泊二日の調査中に,夜の資料室に置かれていた像で,私はいろいろと試していた。
誰もおらず辺りも静かだったので,集中することができたからだった。
それで身体を得た私は像を懐に入れて,宮殿近くの安宿にチャドを訪ねた。
どうもこの人は無用心なのか,それともこれといった手荷物は持ちこんでいないのか,
戸を叩いても出てこず,鍵をかけないまま眠ってしまっていた。
声をかけても起きなかったので,肩をゆすって起こした。
私を見て驚いた彼は「誰だ,ひとの部屋に勝手に」と怒鳴って私を押しのけ,
そばにあった椅子を持ち上げた。
私は突き出されてくる椅子の足を何回かよけたが,
きりがないので,その足をつかんで彼から取り上げ,元の場所に置いた。
「寝ぼけているようだけど,大丈夫か。
 この姿から発せられる声は,君が心で聞いていた声とは違うかもしれない。」
それでもチャドが攻撃態勢を崩さなかったので,私は仕方なく彼をもう一度眠らせた。
それから宮殿に戻り,中を歩いて様子を見て回った。
像による仮の姿は,物にさわれるという点では,肉体のようなものだった。
だが,本物の肉体ではなく,あくまで仮の姿だった。
使い勝手が良く,椅子も蹴りも軽く受け流せたが,
像が無傷だったらもっと優れた能力もあったのかもしれない。

雨は,人に私の姿が見えても,人に私の声が聞こえても,結局何もできないことを私に思い知らせた。
『あの姿は君の友人に似ていたはずなのに,なぜ攻撃してきたんだ。』
「友人?」
『そうか,似てなかったのかな。うろ覚えだったから。
 ただ,人の姿をとるのにモデルが必要だった。君に似せても構わなかったが。』
「……それはやめてくれ。」
『もう身体は持てない。』
少しの沈黙があった。

それから私とチャドは資料室に行き,調べられるだけのことを調べた。
夕方には国の要人達と話し合いの場をもった。
彼らは結論を出せないようだった。
その時チャドは懐にこっそりと像を持っていたのだが,
私とチャドが会話をすると彼らにはチャドの独り言に聞こえたようだった。

*

10-10

俺の体を使ったらどうだと,チャドが虚空を見て言った。私を探しているのだろう。
『そんなことはできない。どうなるかわからない。
 像は生き物ではないから,もし壊れてもそれ自体は犠牲にならない。
 だが,生き物の体は違う。』
「ちょっと待て。像が壊れたらお前は死ぬのか?」
『像に入る訳ではなく,像を使って身体を投影するようなものだった。
 投影された身体には実体としての機能があった。』
「お前は死ぬ存在なのか?」
『死なない存在とは何だ。』
「たとえば神だ,それに天使も。他にもだ,見えない存在は死なないと思っていた。」
『神のことも天使のこともわからない。
 君たちに見えない存在が私の他にもいるのか?
 ならばその存在は私にも見えない存在ということか?』
チャドは言葉に詰まった。
「………お前のことを天使と呼ばれている存在だと思っていた。」
『自分が何者かという記憶はない。おそらく発掘時に像が破損したせいだろう。』
「………すまない。」
『見つけてくれて感謝している。五体満足だし,失ったのは記憶だけのようだから。』
「お前は像の中にいたのか?」
今度は私がきょとんとした。私は像の中にいたのだろうか。
「五体満足と言ったな?人間なのか?」
『私は自分が人間だと思っていた。
 君たちには私が見えない,私の声も聞こえない,そうわかった時も,
 自分が何なのかは考えてもみなかった。
 私には自分の身体が見える。
 顔はわからないが,手や足や胴体は見える。服も着ている。』
「服の下は?どんな身体なんだ?たくましいのか?そうだ,性別は?」
チャドが偶然にも私の目を見た。私に目があるとすれば。
あらためて自分の身体を見ようとすると,霞でもかかっているかのようにぼんやりとしていた。
私は,私の身体を,イメージしていただけなのだろうか。
何もはっきりとは見えない。
『性別とは何だ。』
私は上の空で答えた。
相手が人間だったから人間の姿を保っていたが,人間でいる必要はないのかもしれない。
「だから…,そうだ,服の下だ,身体を見てみろ。」
『私は人間の服の下を見たことがない。』
私は答えながら,動物たちを思い出した。
『その窓を開けてくれないか。』
「ちょうどいい,俺も風にあたりたくなった…」
チャドが窓を開けると,言い終わらないうちに私は窓に向かって走り,かがんだ瞬間に鳥の姿を想像し,
そのまま勢いよく飛び跳ね,窓から外へ躍り出た。
自分が人間ではないと自覚したら,暗闇でも視界が保てていた。
私は屋根の上に降り,猫になって戸伝いにひょいと窓の中へ戻ると,話しやすいように人の姿に戻った。
『君のおかげで気付けた。私は人間ではない。』
「それは,つまり,透明人間の可能性はなくなったってことだな。」
私は扉に触った。そして,押してみた。扉をすり抜けて廊下に出た。
だが壁はすり抜けられない。
私は扉をすり抜けて応接間に戻り,壁の向こう側がどうなっているかを確認した。
もう一度扉をすりぬけて廊下に出ると,今度は壁をすり抜けて応接間に戻った。
やはりそうだ。私の行動は想像に支配されている。
「なあ,どこにいるんだ。」
私は両手で像を持ち上げた。
チャドが浮き上がった像を目で追った。
『私はこの世界での自分の身体の使い方がわかってきた。』
私はあらためて像を見た。
今の私には,このぼろぼろの像が,ただ忌まわしく見えて仕方がなかった。
私は像を床に投げつけた。

10-11

彼らは丘の上の,森林に囲まれた土地に暮らしていた。
仲間から,自分たちは引き揚げる,お前達も早くそうしろ,という連絡がきた。
家族は迷ったが,出来ることならここに住み続けたいと考えた。
王と,王妃と,幼い王女…,
この家族のいでたちは,人々からはたまたま,そんな雰囲気に見えるものだった。

周辺の開拓が進み,最初は徒歩で登ってきていた人々が,車で来るようになった。
その時が近づいてきたことを察した娘は母親に行き先のことを聞いた。
幼い頃にここへ来たので詳しくはわからないと母親は言って,
娘と一緒に王に行き先のことを聞いた。
自分たちがいなくなったあと,この場所はどうなるのか。
三人は,それぞれに想像を抱いたが,それを口には出さなかった。
王は夜中にひっそりと心の内を友人に話すことがあった。
ことに最後の仲間が去ったあとは,夜昼構わず一日に何回もそうするようになった。

私は森を見た。
庭だった場所には背丈の低い花が色とりどりに咲き乱れていた。
あの子がこっそりと植えた種だ。
きっとこの土地は掘り返されて別の何かになるのだろう,あの子はそう考えながら,
両親には内緒で,立ち去る前の晩に,砂のように小さな種を一粒ずつ埋めていた。
彼女なりの心の整理の時間だった。

家は解体された。
庭の花と森の草木とが,その跡地に混ざって生い茂っている。
私はその場所に,記憶に残っているあの家を見た。
屋敷と呼ぶ方が似合う建物だった。
赤みのあるくすんだ紫の壁が,鮮やかではない青の屋根を被って,木々に囲まれていた。
外観はシンプルだが,中は不思議だった。
通路や階段は狭く,どこがどこへ抜けるのか複雑で,全く予想できない場所へ抜けることもあった。
あの家を隅々まで調べようとするなら確かに解体が最良だったのかもしれない。
何を探したのか,それは見つかったのか,宮殿の資料からはわからなかった。

この家族はそれぞれ,屋敷内に独りになれる場所を持っていた。
王のそれは,質素な出窓から外光が差し込むレンガ色の,狭い書斎のようなスペースだった。
彼はよくその小さな窓から外に向かって語りかけていた。
誰というのではなく,ただ外の緑と昼の光,或いは夜の風に向かって,だった。
彼は紙に文字を記すことも好きだった。
手紙が多かったが,ある時それはいつ届けるのかと聞いたら,
相手に見せる為ではなく,考えごとを整理するために書いているのだと言っていた。
実際に仲間達とやりとりする時には,簡潔な短い書簡が多かった。

娘は父から像を借りてよく話しかけていた。
そのうちに王妃も像に興味を持ち,娘と一緒に話しかけたり,娘から借りることもあった。
王妃と王女は父が集めている大切な品々には手を出さなかったが,
像にだけは興味を持ち,慎重に扱うことを条件に王から借りるのだった。
彼らが像に語りかける内容は考え事や質問が多く,
笑い話はあまりなかった。
答えられない問いかけも多かったが,像に話をすることで心の整理がついていくようだった。
彼らは私が無力で知識もない存在だと知っていた。
だから有効な回答を期待しているわけではないのだとわかっていたが,
私はしばしばあちこちを調査してみたりと奮闘した。

王が私を像に縛り付けたんだ。

10-12

像は砕け散った。
チャドが固まった。
『山へ行こう。』
「像が壊れたのに,聞こえる。」
『あたりまえだ。急いだ方がいい。』
私達は暁で紫に染まった連絡通路を裏口へ急いだ。
「どういうことなんだ。」
『山への最短ルートがわからない。町並みも地形もあの頃とは違う。
 昔は出来たような気がするんだが,出来ないんだ,今の私には。』
「とにかく急がなきゃならないんだな。」
外へ出ると,チャドは宮殿の裏庭へ行き埃まみれの車の屋根を開けた。
「今どんな姿か知らないが隣に乗れよ。」
車を見て,一家に立ち退きを求めたあの車を思い出した。
『これはいつ頃の車なのかな。』
「まだ新しいよ。あれから洗っていないだけで。」
『あれからっていうと。』
「像を発掘した日。えらい目にあった。威嚇だったと思いたいな。」
『ということは,そんなに大昔でもなかったのかもしれない。王たちが居たのは。』
「大昔に車がなかったとは言いきれないがな…。」
チャドは考え込んでしまったようだ。
砂漠にさしかかった車はぐんぐんと速度を増した。
空は薄い曇に覆われていて,星はわずかしか出ていなかった。

もう少しなんだけどな。
私は心の中で繰り返した。
何かがひっかかっている。
あの風船を見たのは,いつだったのかな。

10-13

森の中からチャドの車が現れた。
彼は車から降りると,車体に絡み付いた草や木枝を手ではらおうとしたが,すぐにあきらめた。
森林を縫って丘を登る細い道は獣道になりかけているようだった。
「待て。どこかにいるか当てるから。俺はもう気配だけでお前のことがわかるぜ。」
仕方がないので私は彼の目線の先まで移動した。
車の中にはもう1人座っていた。
あの時の子供だ。
「せっかく洗車したのに。草で偽装されちまって,あいつには見つけられないかもな。」
何を言ってるんだ。
私は心の中で笑った。
「なあ,どうしてそう距離を保とうとするんだ。」
意外な言葉だった。
『この車は緑色だったのか。』
「ただの緑じゃない。渋い緑だよ。」
助手席に座っている子供が「天使さん,いるの。」と言った。
「いるよ。その辺に。」
チャドが運転席の正面を手で指し示したので,私はその辺りへ移動した。
「お母さんとみんなを助けてくれてありがとう。」
子供がまっすぐ私を見た。
ゆっくりと,たどたどしい喋り方だった。
「同じ声だね。あの像の天使さんと。」
子供が私の方とチャドの方を交互に見て言った。
チャドが笑った。
「俺のことを日焼けの濃い男の人って言ったのは天使さんなのか。」
『私は天使ではない。君たちには見えないだけの…』
「ぼうず,見えない生き物もいるんだよ。
 こいつは見えないけど天使じゃなくて,おじさんの友達なんだ。」
チャドが運転席に戻った。
「でも,お前にとっては天使なんだよな。」
「うん。」
「あの像を返せなくなってごめんな。」
「ううん。会えたからいいの。」
「みんな退院したよ。何もなかったようにすぐに元気になった。
 この子の母親は今は家で休んでるけど大丈夫だから,安心しろ。
 じゃあ,この子を家まで送ってくる。
 像を返せなくなったことを謝りに行ったら,お前に会いたいと言ってきかなかったんだよ。
 ここにいてくれよ。すぐに戻ってくるからな。」
私はこっそりと後部座席に乗った。
そして,走っている車から,あの公園の前で降りた。
中へ入ってみると,壊れた看板は元通りになっており,屋根も壊れていなかった。
直したのだろうか。
そうか,私は全てを思い出したと感じた。
看板は壊れなかった。
屋根も抜けなかった。

「お母さんは夢だったと思ったんだって。」
あの子の家の前を見ると,あの子がチャドと話していた。
チャドはもう出発するようだ。
私は鳥のように空を飛び,一足先に丘へ戻ることにした。
空は青く,雲は白く,心地よい飛行だった。

10-14

チャドは姿を現さず,夕方になり,夜になった。
あの晩,王は,こう言った。
「私達のとるにたらない悩みのために君がいつも奮闘してくれていたことを私は知っているよ。
 君は真摯な姿勢で私や妻や娘の話に応じてくれた。
 私は君を信頼している。君なら……。君は本当に人間のようだ。
 いや人間は信用できないこともあるが,君は人間ではない。
 私は君を心のある存在だと思っている。
 そしてその心はいつも誠実だった。
 本物の天使のようになった。
 君は生まれて,そして成長した。」
王が真実を意図的に隠そうとしたのか,それとも本当に知らなかったのか,
私には判断できなかった。
王の口調からは罪悪感が感じられた。
「君に頼みたいことがある。
 私たちの中には人々のことを良く思っていない者もいる。
 実は報復計画があるという話を聞いた。大勢の人間が死ぬかもしれない。
 いつ実行されるのかはわからない。
 ただ,前兆として,風船のような物体が現れるのだ。
 そして一定の範囲の人々に影響を及ぼす。
 私達の仲間は最初の頃,このシステムを使ってここの人々から身を守っていた。
 悲しいが,そういう歴史があるのだ。
 もし風船のような物体が現れたら,手遅れにならないうちに対処してほしい。
 方法はこれから教える。」
『それはいつ作動するのか。』
「わからない。彼らしか知らないんだ。私はやめるように説得した。
 だが,万が一…。」
『わかった。万が一そのようなことが起きたら必ずあなたの言った通りにしよう。』
「ありがとう。私はあなたにゆだねる。」
彼は,背負っていた重荷をやっと地面に降ろしたかのような目をした。
そして像を出窓の前に置いて立ち去ろうとしたが,ふと,こうつぶやいた。
「彼らはこう言ったんだ。
 奴らの天使が助けるだろうさ,と。
 だが,天使なんかいないんだ。」

結局,チャドが来たのは,夜が明けてからだった。
彼はいつになく興奮して嬉しそうだった。
「来たぞ!いるか!待っててくれたか!」
声に驚いた小鳥達が一斉に飛び立った。
「俺はここに住むぞ!自分の土地だ!」
何を言っているんだ。
「昨日あのあと,宮殿に呼ばれた。俺はこの国の英雄扱いだよ。
 宮殿は仕方なくご褒美をくれるっていった。
 俺は断ったが,人々からの要望を無視するのは得策ではない,とかなんとか。」
彼は周囲を見回しながら,花を荒らさないように静かに庭の跡地を歩いた。
「一晩やるからとにかく希望を決めて言えと引き留められていた。
 いろいろ考えた。で,俺は思いついたんだ。この丘をもらうことにした。」
私が黙っていても,彼は続けた。
「それだけじゃない,ついでに,
 俺の許可を得ない者はこの丘には入ってはいけないという法律も作ってもらった。
 あれはここに隠そう。
 …で,いつか,その王さんと連絡が取れたら,引き取ってもらうのもいいさ。」
我々は岩山の地下から動力源を持ち出した。
地下の破壊は鉱山の持ち主が勝手にやってくれるだろう。
あの山はじきに崩壊する。
「なあ,宮殿の連中がどこまで探り当てていたと思う?」
『宮殿の人々は恐れていた。君がうたたねしている間もずっと討論が続いていたよ。
 過去を受け入れようと言う者もいて,対立もあった。』
「お前は怒っているか?」
『私は人々の関心が像からそれてホッとしていたよ。天使役をしなくて済むようになったから。
 まあ,私の演技が下手だったせいかなと王には謝ったけど。』
「今のは冗談というやつか?」

人々が天使の声を聞くには王のもとへ行かねばならなかったが,
そうしているうちに,像がそばになくても声が聞こえると言う者たちが少しずつ現れ始めた。
そういった者達は声の主が天使かどうかは気にしておらず良い友人なんだと言っていた。
王の種族は人々と同じ姿だったが,人々は彼らが自分達とは違うと感じていた。
彼らは彼らの社会で暮らし,人々の社会には溶け込まなかったからだ。
彼らの中の一部の者達は人々と親しくなることを嫌って,
山の地下にある古いシステムを修復しようとしていたが,
王は,これ以上使えば人々の心がぼろぼろになってしまうと言って反対していた。
天使のことさえも恐れる者たちも多くいることを知ったからだった。

「"雨を降らせるの"と"雨を遮ろうとするの"が現れたのもそういうことなのか。」
『うん…人々を支配することもできる,そう考える者達から人々を守ろうとする者達もいる,
 どういう態度を取ればそのどちらが力を持つことになるのかを人々に考えさせるために,
 巨大な力を持つ者が対立するという図式を人々は何度も様々な形で見せられていた。』
「この国の連中はそういう話をいくつも書き残している。」
『どこまでが彼らが与えた幻でどれが太古からの神話なんだろうか。』
「またややこしいことを言い出したな。」

チャドは岩山の内部を再調査できると喜んだが,私の記憶があいまいだったせいで,
かなりエキサイティングな冒険をさせてしまった。
「まあ,お前が忘れたのは俺が雑に発掘したせいだもんな。」
『そこがずっとひっかかっているんだけど,私の記憶は像を壊したことによって甦り始めている。
 像が破損したせいで忘れたというのは理屈が合わない。
 私は像で会話以外のことができることを知らなかったけど,
 王は私に万が一の時は信頼できる協力者を捜せと言ったから,王も知らなかったんだと思う。』
何かがひっかかっている。
像を破壊したのに,なぜ出てこないのか。
王の罪悪感の正体は何だったんだろう。
青い空に浮かぶ風船の数々。

旅立つ日,王は悲愴なおも持ちで私にこう言った。
「仲間達が,私達が去った後に,人々の意識から私達の存在を沈めるそうだ。
 あのシステムはここの人々にだけ影響を与えるように設計されているが,
 君に関しては影響があるのかどうかがわからない。
 もし影響があれば,君も私達のことを思い出せなくなるだろう。
 君は私達との会話で成長した。
 だからもしそうなれば君は初期化してしまうかもしれない。
 私は君へのメッセージを君と一緒に埋めておくことにする。」
王は像を…つまり私を,自分が作った物だと本当に思っていたのだろうか。
知らないふりをして私を利用しようとしているのならそれも構わないと思っていた。
私の時間の流れの中では,少しの間王の天使像遊びに付き合わされるのも何でもなかった。

「君は私が作った像だ。」
王は巧い演技をした。

「心当たりがある。」
チャドと私は宮殿の資料室へ行き,銀色をした薄い板のようなものを見つけた。
「奴らは俺より先にあの横穴を調べたことがあったんだ。
 だが,像には怖ろしくてさわれなかったんだと。」
銀色の板には,あの夜に王が私に説明した内容があり,
その後には,詳しく調査できなかったことを悔やんでいる旨も記されていた。
「俺は像が壊れたらお前が死ぬんじゃないかと思った。
 王もそうだったのかもしれない。お前を捕まえちまったものの,
 安全に解き放つ方法がわからなかったんじゃないのか。」
『或いは,私が本当に像だったのか。』
「またわけのわからないことを…。」

宮殿の人々は,ある日突然,自分達が記したはずの書類の意味がわからなくなった。
それで書類に記されていることを徹底的に調査することにした。
書類の中には神話とされる内容が書かれているものもあった。
宮殿の資料室にはこういった意味不明の書類群と,その後の調査結果や発掘品が保管されていた。
調査は行き詰まっていたようだ。

10-15

屋敷の跡地のはずれで,車やテントで寝泊りしながら,チャドはとりあえずのほったて小屋を建てた。
「この地方は遺跡が多い。お前の友人たちが遺したものも興味深い。新しい像も見つかるかも。」
『あの像はもう無いよ。一つだけだったんだから。』
「今のは空耳か。」
チャドは小屋周りの作業を続けながら,しまったというしぐさをした。
『空耳に返事をした。』
「おかえしをしようと思ったのさ。ずっと俺を無視していたから。」
『ちゃんと聞いていた。』
「返事をしないのは無視ってことだ。」
『…………。』
「だからなんで黙り込むんだ。俺はもうお前の気配がわかるようになっている。隠れたって無駄だ。」
『…………。』
チャドは少し離れた緑の草の中を指差した。
「そこだろ。」
『そこじゃないよ。』
「………。」
『私は君が黙り込んでもなぜ黙り込んだのかがわかるのに。』
「なぜ一つだとわかるんだ。まだあるかも。」
『あの像は拡声器のようなものだったんだと思う。
 像がなくても,聞こうとしてくれる者には聞こえていた。』
チャドは,何を今更とか,そう言いたそうにした。
『声だけじゃなく,もっと他のことも"拡声"していたのかもしれない。』
チャドの動きが止まった。
「お前いったい何者なんだ。」
そして,愉快そうに笑いながら作業を続けた。

あの忌まわしさは何だったのだろう。
像が壊せと言っているようだった。
『像が私を救おうとした。』
像が私をつなぎとめていた。
像が私に波長を合わせていた。
像は私を引き寄せ,ほぼ同化していた。
像に入っていたということではない。
私自身は自由に動いていた。
風船を見たのはその頃だったと思う。

「これは耐久性が高いはずだ。太古の昔から今まで失われなかったくらいなのだから。」
像を埋める前に,彼は独り言を漏らした。
「この像はいったい何なのだろう。なぜ人格を持っているのだろうか。」
『あなたは本当に,私を像だと思っていたのか…。』
王の戸惑った目が虚空を見つめた。
私の中にあったわだかまりが消えたのはこの瞬間だった。

じわじわと記憶が甦ってくる。
やはり像の中にあった私の記憶が拡散されたのは発掘時の衝撃が原因だったのかもしれない。
だがまだチャドには言わないでおこう。
青空の下に,あの岩山が佇んでいる。
多彩な花々を咲かせていた木々は,今はもう,一つも残っていない。

「お前の声を聞いて天使だと思った理由,わかるか?」
『…………。』
『ごめん。また黙りこむところだった。』
「子供の頃に同じ声を聞いたんだよ。お前もあの頃,あの辺りに居たのか?」
『私はどこにでもいたのだろうし,時間の感じ方も君達とは違うのではないかな。
 私かもしれないし,私以外の存在かもしれない。』
「やっぱりあれは天使だったんだ。お前みたいな間抜けじゃなかったし。……でも,同じ声だった。」
『私の声は聞く者の主観で変わるのだと思う。振動じゃないから。
 それに君は私の声を聞いて最初は自分の直感だと思ったと言ったじゃないか。』
「直感は天使の声で聞こえることもあるんだ。」
『君が子供の頃のことを思い出せない。』
「俺だって子供の頃のことはあまり覚えてないよ。」
『生まれる前のことは覚えているか。』
「知らん。」
『私もだよ。』
天使がいるのなら,私も声を聞いてみたい。

『すまないな。私は物を運べないから。』
そう言って少し離れた所から彼の小屋を見ていたら,「運べるくせに」という悪態が聞こえてきた。

[完]


indexへ抜けます> <その他のよみもの理髪師の冒険

inserted by FC2 system