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理髪師の冒険


宇宙

29-1

ユーフォーを見たことがあることを,まだ誰にも話してない。
言わなくてもいいよね,自分だけの記憶にしておけばいいよね。
UFOは未確認飛行物体を英語で書いた時の頭文字。
正体を確認できない限り,あれはUFO。

『正体を知りたいの?』

正体を知りたい。
でも確かめようがない。
軍用機でもいいから,正体が知りたい。
正体を知ってる?

『見てみないとわからない。』

風船とか,飛行機とか,星とか,大概はそういうものの見間違いらしいけど,
中には説明のつかないものもある。
だから,"未確認飛行物体"で間違いはない。
確認したら"確認された飛行物体"になるよね。
正体を知りたいけど。
調べようがないから永遠にユーフォー。

29-2

最近地区の広場で見かけるようになった子がいる。
誰に聞いても何年何組の誰なのかわからない。
いつもぼくの方を見ていたから,今日は話しかけてみようかと思う。
ぼくより年上ではなさそうだから,気楽に話しかけても大丈夫かな。
「お前何年?」
「うーん。君と同じ。」
「何組?」
「うーん。」
「なんなんだよ。」
「三組かな。」
「ぼく六組。」
三組は新校舎。六組は旧校舎。
お互いにテリトリー意識のようなものがあって,用がなければ行き来はしない。
この時あいつが三組って答えたのは,それを考えたからなのかも。

こいつはいつも暗くなるまで広場にいた。
みんながいなくなった後も帰らないから,ぼくは帰ったふりして遠くから振り返って見た。
あいつは一人で夕暮れの空を見上げていた。
ぼくは広場に戻って聞いてみた。
「星の観察?」
「ユーフォーを見てみたいの。」
「見たことある?」
「ないと思う。見たらわかるかな?」
「わかるよ。絶対違うもん。動きが。」
「どんな感じ?」
「中に人が乗ってるのが不可能そうな感じの動きだったらユーフォーだよ。そういう飛行機は地球の人間には作れないじゃん。もしくは,密かにそういう技術が出来ていて試験飛行してるっていう説もあるよね。」
「なるほどなぁ。」
気取って言った"もしくは"に反応しなかったな。
「お前もっと話しかけてこいよ。いつも広場に来てるだろ。」
「話しかけるの?」
「うん。明日も来る?来たらぼくに話しかけろよ。」

学校であいつを見かけることはなかった。
教室から出ないのかな。
UFOの話をしたかったけど,わざわざ三組まで行くほどでもない。
学校が終わって広場へ行くとやっぱりあいつがいた。
「明日星の観察だな。」
あいつはきょとんとしてぼくを見た。
「行くだろ,星の観察。」
「どこに行くの?」
なんなんだこいつ。明日の夜,六年生は学校の屋上で星の観察だ。
ただし夜だから自由参加になる。
「一緒に行こうぜ。星を見るふりしてUFOを探そうよ。」
するとそいつは急に目を輝かせて笑顔になった。
「うん,見たい!」
「じゃあ四時半にここで待ち合わせ。」
「あ…でも…やっぱり…無理かな……。」
「もしかして,六組と一緒に行動したら何か言われる?」
「あ…うん……。」
「まあ確かに他のクラスの子と一緒に行動は出来ないかもしれないな。」
「あのね,君がユーフォーを見たのはどこか教えて?」
「え,いいけど,でも同じとこへ行けば見られるって訳じゃないよ?」
いつの間にか近くに集まっていたぼくの仲間たちが早く遊ぼうぜと言い出した。
ぼくはスーパーの駐車場で見たことがあると教えて,仲間たちに混ざった。
そういえば,ここであいつを見かけるようになってから一度も,あいつが誰かに話しかけるのを見たことがない。ほとんど歩かないし,座らないし,まあ座る所もないけど,一人で楽しそうにしているように見えるから,寂しそうでもない。混ざりたいと思っている奴の目ってなんとなくわかるけど,あいつはそうじゃない。
その日もまた,ぼくたちが帰った後も,広場に残っていた。

星の観察では,やっぱりあいつを見つけられなかった。家がこの近所なら同じ通学路になりそうだけど,行きも帰りも見かけなかった。行かなかったのかもしれないな。

それから一週間,ぼくは毎日一人で三組を覗きに行った。休み時間毎に行き,放課後も見た。三組のやつらにからかわれても気にしなかった。名前を知らないから聞くこともできなかった。あいつはいなかった。
その一週間,あいつは広場にもいなかった。

29-3

ぼくは三組に行くのをやめた。
次の週もいつものように仲間たちと広場で遊んでいると,あいつはまた一人でぼくたちを見ていた。
仲間の一人がぼくに,お前UFO見たことあるの?,と唐突に言った。
なんで,と聞き返すと,この前スーパーで見たって言ってなかった?,と言った。
そうか,聞こえていたのか。
それで,次の日みんなでスーパーの駐車場へ行くことになった。
ぼくたちはスーパーの駐車場で,UFOの話や,それ以外にもいろんな話をした。
途中でぼくは駐車場にあいつがいるのを見つけた。ちょっと驚いたけど,そのまま話し続けた。仲間たちも気にしていないようだった。たまたま買い物に来たのかと思ったら違うみたいで,広場の時と同じように一人で少し離れた所からこっちを見ていた。
ぼくは何だか腹が立った。
暗くなってきたから,もう帰ろうか,となった時に,ぼくはちょっと待ってて,と言ってつかつかとあいつに歩み寄り,少し強い口調で言った。
「話しかけろよって言っただろ。」
後ろから「何してるの?」と仲間の一人が言ったのが聞こえた。
後ろを見てもう一度前を見たら,あいつが小さい声で言った。
「ごめんね。」
ぼくは調子が狂って,言葉が出なくなってしまった。
早く帰ろうぜ,という仲間の声に,今行く,と答えて,もう一度あいつに言った。
「自分から話しかけろよ。あいつらだって意地悪なんかしないよ。」
その時あいつは多分,何か答えようとした。けど,ぼくは急いで引き返そうと向きを変えた瞬間だったから,勢いで体が止まらなくて,そのまま仲間たちと帰ってしまった。
その時のことが少しひっかかって,家でも頭から離れなかった。
あいつ,三組なんて嘘だったのかな。六年ていうのも嘘だったのかもしれない。なんなんだよ。

次の日ぼくは,いつもより早めに広場に行った。
ちらほらと下級生がいる,あいつらは下校時間が早いからだろう。
そして,今日もあいつは来ていた。
もし他の学校からだとしたら,こんなに早く来られるだろうか。
ずかずかと歩いて行くと,あいつがぼくの方に向いた。
「お前本当に六年三組?休み時間いつもどこにいるの?」
ぼくの声は明らかに不機嫌に聞こえた。
あいつが何か言おうしたように見えた。
「嘘だったの?」
「ううん,嘘じゃないよ。あのね,東京に引っ越すの。」
「?」
「もうすぐ会えなくなるよ。でも……。」
「?」
「話しかけたら,気づいてね。」
あいつは急に走って,広場の端のブロック塀を飛び越えた。
すげぇ,あんなことが出来るのか,と思った次の瞬間,あっと思って追いかけた。
ブロック塀のてっぺんには手が届かなかった。ぼくは助走をつけて再挑戦したけど,やっぱり届かなかった。あんなの香港映画だよ。ぼくはあきらめて金網になっているところまで行って,そこを乗り越えた。ブロック塀の向こうを見ても,あいつがどっちへ行ったのか,もうわからなかった。
その後広場に来た三組のやつらに,思い切って聞いてみた。あんなに変な奴,そう沢山はいないから聞けばわかるだろうと思った。でも三組のやつらはそんな奴いないと言い,東京に引っ越す奴がいるかどうかも聞いてないと言っていた。
ぼくの気持ちはガックリと落ち込んだ。やっぱり嘘だったんだろうか。
「あ。」
思わず声が漏れた。同じ学校かは聞いてなかった……。
今度あいつに会ったら今度こそちゃんと聞こうと,心の中に箇条書きした。

29-4

ぼくはその日,家に帰る前に,学校から直接広場へ向かった。
あいつが広場へ来るか,不安だった。

その日あいつは学校で,午前中の休み時間にぼくの教室へ来た。
「あのね。屋上に行こうよ。」
「え,でも屋上は鍵が…。」
びっくりしたけど,嬉しかった。
するとあいつが「声を出さない方がいいよ」と言ってさっさと教室を出ていったので,ぼくは急いで追いかけた。
あいつは早足でぐんぐんと廊下を進み,階段をのぼって六階に着くと,屋上に出るドアを開けた。
付近には誰もいない。ドアは教室から離れた廊下の突当りにあるから,いつもあまり人がいない。
一応誰にも見られていないか確認してからぼくも屋上に出た。
あいつがそっとドアを閉めた。
「もう喋っても大丈夫だね。一人で喋ると変に思われるからね。」
「鍵,開いてたのか…。」
「ここに座れば校舎の中からも校庭からも見えないよ。」
そうそう,屋上に出るのは禁止だから見つかったらやばいんだ。
「もしかしてよく来るの?」
するとあいつは一瞬困った顔をした。
「大丈夫だよ。誰にも言わないから。」
ここにいたとしら捜しても見かけない訳だよな……。
ぼくは言われた場所でコンクリートの上に座った。あいつも座った。ぼくは山々を見渡した。空は水色の秋の空だった。
「お前,なんていう名前?」
あいつは名札をしていなかった。あの頃,校内で名札は必須で,付けていないと先生からも他の児童からも必ずどやどやと言われたものだった。
「もうあんまり時間がないね。」
「あと10分くらいはあるよ。」
「あのね,ユーフォーを見たよ。君が見たのはユーフォーだと思うよ。それで君は可視光が一時的に広がってるんだよ。」
「ん?」
ぼくは後で辞書をひいた。菓子食おうではなく,可視光だった。
「でもあとちょっとなんだ。ええと,ぼくはあとちょっとで東京に行くんだ。だから,話しかけてみたよ。ぼくはいつも見る方だから,話しかけるって慣れてないんだけど,でも,君はもっと話しかけてほしいんだね?これからはそうするから,気づいてね?」
「ん?あ,うん…。」
「でも時々多分聞こえなくなるかもしれないよ。成長期は特にめまぐるしく変わるんだ。君が見たのが地球上の飛行機だったら,会えなかったよ。だからユーフォーだよ。何かはわからないけど,何かわからないからユーフォーなんだね。君がユーフォーを見た時に,ユーフォーも君の目に入ったんだよ。けど意識して聞こうとすれば聞こえ続けるんだよ。そうしないと,次は君が死んだ後になっちゃうよ。もっといろいろ伝えたいのに。ね,話しかけたらちゃんと気づいてね?」
「うん,わかったよ。ちゃんと気づくよ。お前もちゃんと,うるさい所でも聞こえる声を使ってくれよな。でも今はあんまり大きい声を出すと周りに聞こえちゃう……。ねぇ,東京はどっちの方向かわかる?」
「東京は北の方だと思うよ。」
「北…北ってどっちだろ。ぼくいつも思うんだよ。山の向こう見えないじゃん。何があるのかなぁって。山を越えたらまたここみたいな町があるのかな。それとも,ずっと山なのかな。」
「うーん。東京はあの山の方かな。あっちの山の向こうは富士山だね。」
「富士山?一番高い山なのに何で見えないの?」
「低い所から見上げているからだよ。高い山でも,低い山の死角に入っちゃうの。」
「ふーん。そうなのか。」
その時はよくわからなかったけど,あの山の向こうに富士山があると聞いて,いつもの山が輝いて見えた。そして,ちょっと邪魔にも見えた。
予鈴が鳴った。
「あ,そうだ,今日も広場に来る?あの塀の跳び越え方教えてよ。」
「え,うん,でも,間に合うかな……。」
「あ,やばいよ,屋上から教室まで遠いよ,三組なんかもっと遠いじゃん!」
言いながらぼくは屋上のドアを開けようとしたけど,開かなかった。
あいつが手早くドアを開けた。
それから卒業までの間,屋上に出たのは,三学期の,希望した六年生が参加する屋上掃除の時だけだった。その時にドアを掃除するふりをして確かめたら,外側に鍵はなかった。もし中から鍵をかけられたら外からは開けられない。だから先生は必ず屋上に誰も残っていないか念入りに確認してから最後に鍵を閉めるのだった。

ぼくはブロック塀の方を見た。
あいつはまだ来ていなかった。
しばらく待っていると,いつもの仲間たちがやってきた。
ぼくは仲間たちにこの塀を越えられるか聞いてみた。
みんな2〜3回挑戦して,無理だ,もっと背が伸びたら,と言った。
ここを跳び越えた奴がいることを教えると,嘘だ,信じられない,と言われてしまった。
ぼくは仲間たちとは遊ばずに,一人で塀に登る練習を始めた。
あいつは確かこの土の盛り上がりから,こんな風に足をかけて手を塀の上に……。
それからぼくは何日も練習したけど,結局あきらめてしまった。

29-5

あの頃よりも背が伸びて筋力もついた頃,ぼくは初めてあの塀を乗り越えた。
いつの間に建ったのか,塀の向こうにあった黒土の畑がアパートに代わっていたから,ちょっと気まずくて,一回だけでやめておいた。
今目の前にある塀が,かなり厚みはあるけれど,あのブロック塀と同じくらいの高さだ。
ここに来てから,この塀を見る度にあいつのことを思い出した。
そして,もっとよく思い出すために暇さえあればこの塀を見るようになった。

「星の観察の時,先生がそんなこと言ってたよな。星は目に見える光だって。」
ぼくは卒業までの間,仲間たちと時々UFOの話をした。
心の中にしまっていたことを普通に話せるようになったのはあいつのおかげかもしれなかった。
だけど仲間たちは誰もあいつのことを知らなかった。
広場でじっと立ってこっちを見ていたあいつを気にしていたのは,ぼくだけだったようだ。
先生の話なんて耳に入ってなかったぼくは,仲間たちの話をじっくり聞いた。
「人間に見えてる光は沢山の光の中の少しで,人間も人によって可視光の範囲は曖昧かもしれないとか,存在するのに見えてない星もあるって。」
「そうそう。先生そんなこと言ってた。」
ぼくの頭の中であいつの言葉が鳴り響いた。
『君がユーフォーを見た時に,ユーフォーも君の目に入ったんだよ。』
あいつ筋道たてて話さなかったから,あの時はチンプンカンプンだった。
結局,何を言いたかったのだろう。

いつの頃からか,あいつが東京に行くと言ったのは嘘だったと考えたくなった。
たぶん何かを隠す為に東京って言ったんだ。
東京って言えば,無難だから。
あの屋上以来,あいつはいなくなった。
そもそも,ほんの半月くらいの出来事だった。

「いつもこの塀を見ているね。」
振り向くと,いつの間にか同僚がそばに来ていた。
「君には話したくない経験があるのかもしれないけど……。」
同僚がためらいがちに続けた。
ぼくは答えた。
「話したくない事というよりも,話したくて仕方がないことがある。」
ためらわなくてもぼくの英語はいつもためらいがちだ。
ぼくは話した。航空自衛隊の訓練中に未確認飛行物体に気づき,任務を放棄して追いかけたことを。
どこまでも追いかけて高い所まで行きすぎたけど,不思議な力で奇跡的に助かる。
その後アメリカに住み,航空会社を作ってUFOを追い続けるんだ。
「何ボーっとしてるの?」
「あ,ちょっと……。」
空を見ているうちに自分の考えに入ってしまった。
ぼくは背後の塀を見た。
あいつに出来たくらいだから,きっと何かコツがあるんだろうな。
ちぇっ,聞きたかったな。

29-6

自衛隊や旅客機のパイロットになってもUFOを追いかけるわけにはいかないことは,勉強していくうちに察することができた。
自分の飛行機がほしかった。
『無茶だよ。墜落する。』
もう一人の自分が言った。ぼくはそれを打ち消すように答えた。
「今追いかけなかったら,絶対後悔する。」
ぼくは限界を無視して未確認飛行物体に向かった。
UFOが近くに現れるのはこれが最初で最後かもしれない。
ぼくもいつまでも若くはない。死んでもいい,正体を確かめたい。
近くに現れるのは……。
距離が縮まない。近くないのかもしれない。
そりゃそうだよな,向こうはワープできる機体かもしれない,こっちは小型機……。
姿を見せる気がないなら,これみよがしに現れるなよ。
『あれはきっと軍用機だよ。軍用機の為に命を落とすの。』
正体はなんでもいい。それならそれで,正体を知りたい。
『敵対的な奴の罠だとしたら?』
そうか……それも有りそうだな……それも面白いと思うよ。
『全ての機械を止めて。紙飛行機のように。』
…………。
あの世に導く自分の声……。
いやだ,絶対に追いつく。

あのね,ユーフォーを見たよ。君が見たのはユーフォーだと思うよ。
話しかけてほしいんだね?これからはそうするから,気づいてね?
意識して聞こうとすれば聞こえ続けるんだよ。
そうしないと,次は君が死んだ後になっちゃうよ。
ね,話しかけたらちゃんと気づいてね?

ぼくは全ての機能を止めた。
薄青い空の中で,追いつけなかった点が近づいてきた。
こっちが追いついたのか,向こうが減速したのかは,わからなかった。
やがて併走するように接近した。
物体は,地球に抜かれた惑星のように背後へ過ぎていった。
振動はなかった。
静かだった。
丸い岩だった。
彗星,隕石,小惑星,月……。
尾もひかずに,何の抵抗もないかのように,静かに静かに退行していった。
小型機は墜落した。
白い膜をまとった,灰色の岩……そんな風に見えた。

29-7

誰にも話していない。
話さない方がいいよね。
ぼくはブロック塀を見ていた。
前に,会社の同僚たちに,この塀を超えられるかとけしかけたことがある。
ぼくも含め,全員が超えられた。
さすがにみんな,体力も運動神経も良かった。
「この塀を超えられる?」
「いや,まだ痺れが残っているから……。」
「超えられるよ。」
振り向くと,少し離れた所に,まるでカードに描かれた絵のような天使が立っていた。
背が高く,性別がわからず,白い衣に,白い翼。
仮装かな,誰だろう,クリスマスは時期外れのはず,この国の人はこんなのが好きだよな。
でも嘘っぽさがないな。
あれ,どこかで寝込んじゃったのかな。起きなきゃ。
いろいろな考えが頭を巡った。
天使は塀とぼくの間に立って言った。
「まずは感覚をつかんでごらん。」
すると天使はかがんで翼を地面に着けた。自分を踏み台にしろと言いたげだ。
ぼくは天使の背中にそっと触った。
温かさも冷たさも感じなかった。ただやわらかな実体がそこに居るのは確かだった。
「いいの?」
「大丈夫だから。危ないから靴のまま上がってね。」
靴を脱ごうと考えたぼくの心が,読まれてしまったように感じた。
よし,そこまで言うなら……。
ぼくは天使の背中によじ登った。
強い力を入れると体のあちこちがまだ痛んだ。特に左足の痺れがつらかった。
天使はその両手でぼくの足を,そっと片方ずつ自分の肩に乗せて,すっと立ち上がった。
突然視界が高くなって塀の向こうを見渡せた。
田舎町の郊外で,舗装された広い道路があるが,車両の通行はあまりない。
ぼくは天使の助けを借りながら,ブロック塀の上にまたがった。
見渡した辺りの山々に,故里の山々が重なった。
あいつどうしてるのかな。ぼくは見たよ,UFOを。結局,その正体はわからなかったけど。
ぼくは敷地の外側へ飛び降りた。
着地の衝撃で上半身を打った。ひじをすりむいたけど,頭はぶつけなかった。
痛みで闘志が湧いてきて,ぼくはずかずかと門の柵まで歩いた。
天使は中から門を開けてくれた。
今度は門のすぐそばの塀の前で天使がかがんだ。
ぼくと天使はそこで,塀を超えては門から戻り,また塀を超えて門から戻るという練習を何回も繰り返した。
そのうちに,天使の背中から自力で塀の上に登れるようになった。
そのあとは,助走して塀に飛びついたぼくの体を,逆上がりの練習につきそう先生のように天使の手がサポートした。天使は素手で靴を触った。普通の人間なら血がにじむくらいのはずだ。そういえば背中も,よくわからない衣だけでぼくの踏み切りに何度も耐えていた。だけど,汚れてしまっているけど,無傷だ。
やはり夢なんだろう。
「今ぼくは,君をサポートしなかったよ。」
門から入ったぼくに,天使が片手を差し出した。
「約束を守れて嬉しいよ。おめでとう。」
「あ,ありがとう。」
ぼくは天使の片手を両手で握った。
天使の背後に小さく,オフィスを出てこちらへ向かってくる同僚が見えた。
視線を戻すと,天使は消えていた。
「おい,おいっ,見たぞ。登ってたな。」
同僚が嬉しそうにやって来る。
「あ,その……。」
「昨日の今日だぜ!」
ぼくは両手を見た。手には泥と血が付いていた。
ぼくは虚空に向かって叫んだ。
「待って!待ってよ!なんでそんな恰好なの?」
『ぼくは君の投影なんだよ。』
東映?
『これからも話しかけるからね。気づいてね。』
「話したくないなら,話さなくていいよ。」
会社の機体をひとつおじゃんにしてしまった。
まずはそれを弁償する。
その後はあの頃の空想のように,自分の会社を起ち上げられたら最高だと思う。
「どうしてあんなことをしたか,全部聞いてほしいよ。」
門を閉めようとしたら,柵も鍵も閉まっていた。
「ぷ。」
見ると,同僚の横に,あいつが立ってにこにこしていた。
「なんだよ。」
同僚が不思議そうに言った。
「今度の効果は長そうだな。あんなに近くで見たんだから。きっと全身に浴びたよ。」
「何を見たんだよ。」
「これから話すよ。」
「俺も見たよ。」
「何を見たの?」
ユーフォーめ,絶対に正体をつきとめてやる。

ぼくたちはオフィスで話した。
ここからこっちを見ると東京。
こっちの山々の向こうに富士山。
故里はあってないようなもの。もう変わってしまっただろう。
地図で見ると,東京は,こんなに近かったんだな。

[完]


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