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理髪師の冒険


一輪の花

4-1

神棚を眺めていた。
さわらぬ神にたたりなし,という言葉は,子供時代からいろいろな物語によって私の意識に刷り込まれてきた。
この文章を書きながらも私は何度か背後を振り返っているが,そこには閉じている襖があるだけである。
それでもやはり背後が気になって,書きながら何度も振り返っている。
私が知っている神はたたらない,神に人格はない。
しかし,その神と神棚の神が同じなのかはわからない。
神棚の神,或いは神棚の神々は,いったい我々,とりわけ私に対して,どういう存在なのだろうか?
家族は神棚の前をおごそかに飾り付け,お供え物をたやさない。
そんな家族に対しては,神棚の神,或いは神々は,優しい存在であるはずだ。
私は畳の上に座り込んで,神棚の中や,祭壇の飾り付けや,それらの向こうにある床の間の壁を,ぼやけた視線でじっと眺めた。
神棚をじっと見つめるのは神棚の神様を怒らせる行為かもしれない。
神棚の神の正体がわからない,という恐怖が,そうさせた。
ここに神棚の神様がいるのだろうか,それとも何らかの力が宿っているのだろうか。
興味と好奇心には勝てなかったが,恐怖にも勝てない。
別の世界への入り口がここにはあるのだろうか,それとも存在しないのだろうか。
何も存在しないのに祭壇を作って供え物をして祈祷をしているのだろうか。
これらの置物にはいったいどんな意味があるのだろうか。
これらの一つ一つに神が,それとも神の何かがこめられているのだろうか。
いや,やはり物は物なのである。
これらをもし落としたり壊したりしたからといって,実際には,何もないはずである。
そんなことでたたられるとしたら,怖くて掃除もできなくなるはずである。
掃除もせずに埃まみれにすれば,それもまた,神の機嫌を損ねるかもしれない。
神棚をこのように神聖な空間として祭っていなければ,神によってその家には悪いことがもたらされるのだろうか。
もしそうなら,神棚は我々人間にとっては災いをもたらす存在でしかないことになる。
それとも,災いをもたらす存在を鎮めるために神棚を祭るのだろうか。

そうではない。
これらの物は他の物と変わらない,悪い力も神のたたりも存在しない,心の中の神はそう告げる。
試しに,どれか一つでもわざとはたいて落としてみようか。
しかし,それを作った人の思い,飾った人の思い,そういったものを想像すると,それはできなかった。
もし自分が何かを作ったとして,それが神棚とは関係のない物であっても,作った物を粗末に扱われたら心が痛む。
物に魂が宿る,という考え方もあるが,それは作った人や愛用した人がこめた思いなのではないだろうか。
そういった思いを感じたり受け取ることが出来ない者にとっては,それらの思いは存在しないのと同じことになる。
物が人をたたったりすることはないとしても,思いを込めた誰かが誰かを恨むことはあるのかもしれない。
もしそうなら,思いを込めた誰かがたたらないのなら誰もたたられない。
では,生き物の体は何かをたたることがあるのだろうか。
生き物の体に思いを込める者がいるとしたら,それは神だろうか,それともその体の持ち主だろうか,或いは血のつながっている親だろうか。
最初は神が何かを体に込めて,そして命が誕生するのだろうか,そして,成長するにつれて,体の持ち主に自我が芽生えていくのだろうか。
仮にそう考えるとしても,生き物ではない神棚の飾り付けには,自我は芽生えないはずである。
仮に物に何かがあるとすれば,神が最初にこめた何か,すなわち神の意志があるだけのはずなのである。
このように考え,きっとそうだと感じながらも,神棚への恐怖は消えなかった。
たたりなど無いことを知るためにも,今目の前の物を棚から落とす,たったそれだけのことができないこと自体も,自分で自分の考えを否定しているかのようでもあった。
そうやって,吸い込まれるように,飾り棚の上の置物と置物の間の空間を,意識的に焦点が合わないようにした視野で眺めていた。
私の周りには家族や来客がいた。
皆は神棚に恐怖を感じないのだろうか。
それとも,恐怖を感じているからこそ,こうやって神棚を祭るのだろうか。
視界のすみには来客と家族が立ち話をしているのが見えていたが,私には何を話しているのか聞こえなかった。
焦点の合っていない視野のほぼ中央あたりにそこだけくっきりと焦点の合った存在が現れた。
私はここでまた背後が執拗に気になりだして手を止めた。
静かな未明の外に響くかすかな音すらも気になって言葉がつながらなくなった。
ぼやけた視界とは対照的に,まことにそこに存在する,という存在が見えた。
おそらく手では触れられない存在なのであろう,周りの置物とは異質であることがすぐにわかった。
宙に浮いているその存在の視線が,私を見た。
そして,恐怖を感じない声で語りかけてきた。
よく聞き取れる明瞭な言葉だった。
私はその存在から,かわいらしい小さな一輪の花と一輪挿しを受け取った。
視界が元に戻ると,近くにいた人たちに今の声が聞こえたかをそれとなく尋ねてみたが,答えはノーだった。
周りの人たちは見ておらず,聞こえてもいなかったようだった。
周りの人達が確かに動きながら会話をしているのが視野の端に映っていたから,時間が止まっていたわけではない。
私は花を手に持ったまま,あの存在がこの花について語った言葉を周りに伝えようとしたが,あんなに明瞭に聞いたのに,言葉にしようとすると,みるみるうちに不明瞭になっていった。
私はその存在から語られた言葉がどんどんわからなくなっていくことを恐れ,とにかく実行にうつすことにした。
そばには知っているような知らないような青年がいつの間にかいて,それを手伝ってくれた。
この青年は優しい笑顔をした安心感のような存在だった。
私が花を右手に,一輪挿しを左手に持って,薄れ行く神の言葉をなんとかして正しく青年に伝えようと努力すると,青年は階段を上がって二階に行き,「ここじゃないかな」と,廊下の窓の下にあった少したいらなでっぱりの上を両手でなでた。
窓がある廊下は明るかった。
後から思うと,あんな所にあのようなおあつらえむきの場所があっただろうか。
まるで青年がそこにこしらえでもしたかのようにさえ思えた。
その不自然で小さな一角は,昼の光とも青年からの光とも見える,やわらかな明るさに包まれていた。
一輪挿しは紺色か青っぽい紫のような印象が残っている。
花は四枚の丸みをおびた桃色の花びらを持った切り花だった。
茎は持っていても折れないしっかりとした茎で色は濃く,葉はあったかどうかよく思い出せない。
花に近いところに対になった緑色の葉が二枚くらいはあったかもしれないが,無かったかもしれない。
あの花と一輪挿しの置き場所は青年が推測した場所で正しかったのだろうか。
私は階段の一角ではないかと推測したが,どちらでも良いような気がしたので,青年が撫でた場所を選んだ。
私に一輪挿しを渡した神棚の神,或いは神棚の神々の中の誰かと思われる存在は,授けたものを正しい場所に置かなければ怒るのだろうか。
そもそも,なぜ消え行く記憶の中で言葉をかけたのだろうか。
もし正しい場所に置かなければ怒るのなら,決して薄れない記憶として語りかけてくれれば良いのに。
目の前に姿を現した存在を信じる信じないよりも前に,歩けば消えてしまうような記憶として授けられた言葉を思い出せなくなったからといって,罰せられるような罪になるのだろうか。
私の心の中の神様はこう言う。
あの存在は神棚の神様か,それとも神棚の神様がわかりやすい姿に具現化した姿なのだろう。
私が阿呆な気持ちでボケーッと空(くう)を眺めていたからなのだろうか。
とにかく,気持ちに応えて現れてくれたのである。
そして,現れた証拠となるものを渡してくれた。
でも,思い返すと,その証拠は私と青年にしか見えていないようだった。
自分の他にもこの花が見えている人がいる,その喜びも大きかった。
もしあの花が他の人達にも見えたら,きっとどこに置いても邪魔にされただろう。
置き場所は,どこでも良かったのかもしれないとも思う。
自分が良いと思う場所に置ければそれで良かったのかもしれない。
けど,神棚への恐怖心が消えず,自信が持てないから,青年の言葉が正しいように思えた。
青年は,本当は置き場所はどこでもいいんだけど,せっかく置くのならここはどうかなと素敵な場所を用意してくれたのかもしれない。
安心できるようにしてくれたのかもしれない。
間違えたのかもしれないとビクビクして過ごすことにならないようにしてくれたのかもしれない。
神様は言う。
花と一輪挿しをどこに置いても,どう扱っても,たとえ枯らしたり失くしたりしても,誰も怒らない。
ただ,私自身が嘆くだろう。
神様は何度でも与えてくれるかもしれない。
けど,もしも与えられたものを失くしたら,自分の怒りに襲われるだろう。
神棚の神様も,心の中の神様も,あの不思議な青年も,言葉ではない言葉で語った。
授けられた言葉が刻々と記憶から消えていくのは何の問題にもならないことなのかもしれない。
神様が与えてくれるのはいつも,言葉そのものではない。
言葉の周囲にあるもの,それを包み込むもの。
神様の言葉がいつもすぐに記憶から消えゆくのは,神様の言葉はいつもすぐに姿を変えるからなのだろう。
神様が発する言葉は我々が思うような言葉ではないようなのである。
これを書いている現在も,やはり私は神棚への怖れを失えない。
そして,物は物だとわかりながらも,物を軽んじて見ることは出来ない。
神がいる場所を祭るのではなく,祭られた場所を通して神は現れることがあるのだろう。
なんでもない場所にもし神のメッセージが現れたとしても,人はそれが神のメッセージだとは気付かないかもしれない。
もし私がどこか他の場所であの姿を見たら,神棚の神様だとは思わなかっただろうし,その姿が現れた場所には怖くて近づけなくなっていたかもしれない。
特定の信仰を持ち神のイメージがしっかりとしている人ならきっとそのイメージで神に会うのだろう。
しかし,私が抱いている神棚への恐怖心は,時々神様を妙な姿にしてしまう。
それでも神様だとわかるのは,他にそういう存在はいないからである。

[完]


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