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理髪師の冒険


民家

5-1

古い民家があった。
誰も居ない。

劣化していない。
埃もかぶっていない。
時が動いていないかのように。

飴色の和室,小さな箪笥,型の古い時計,綺麗に整えられたままの居間。
手前には土間,奥には縁側,干からびた茶色い土の庭が茂みに囲まれている。
茂みの中へはかすかな獣道が続き,次第に藪に消え,
その向こうに,道路が山裾に沿って曲がりくねっているのが見える。

縁側のすみには不思議と居心地の良さそうな空間があった。
大人1人がちょうど居られる程度の畳敷き。
小さな机と小さな棚。
この家の主はここで何かを書いていたようだ。
主はいない。
誰も居ない。
だが,私はこの家の中のどれにも手をふれようとは思わない。
この家の中のもの,庭のもの,どれにも触れようとは思わなかった。
いじらない方が良いと思ったのか,それとも他の理由からなのかは,はっきりしないが,
ただ,そっとしておいた方が良いと思った。

私には勇気がなかった。

何かがいる。
何かがいるが,今は居ない。

かつて何かが誰かと暮らしていた。
その何かが,今でもここに帰ってくる。
ここは守られている,何かに守られている。
主が居た日々のままだ。
埃ひとつかぶらずに。

庭の土の上から辺りの畑を眺め,
向こうの道路をたまに通る自動車を眺め,
蝶の舞う花と共に,風に吹かれたり,雨に降られたり,
地面の上で明るい日射しに照らされながら,
主は暮らしていたのだろう。

それが知っている誰かのような気がするのだが,
誰なのかがわからない。

ただ,懐かしい,懐かしい,懐かしい。

そして気がついた。
さわろうと思わないが,
さわれもしない。
私の足音はしない。
もうすぐ何かが帰ってくる。
何かが何かを待っている。

畑仕事の爺さんが麦藁帽子を脱いだ。
 もう,畑はだいぶ小さくなって,
 辺りは荒れ放題だけど,
 でも,畑仕事を続けているよ。
こんな風に言いたげな,厳しくも寂しげな表情だ。
「アンタがいなくなって…」
随分と歳をとった,そう見えた。
この爺さんの昔の姿が見えた。
昔の畑も見えた。
走り回る動物たちも見えた。
爺さんは私を見た。
厳しい表情で何か言葉を続けようとしたから,私は怒られるのかと思ったが,
爺さんはそのあとは何も言わずに,茂みの向こうの小さな畑に戻っていった。

畑の上の夕焼けには,昔と変わらずに,鳥たちが戯れていた。

庭の花を愛おしく思った。
誰も世話をしていないはずだ。
野生だからだろうか,それとも,あの爺さんがたまにはやってくるのだろうか。
爺さんは畑仕事の合間に様子を見に来る。
草一本抜きもせず植えもせず。
それでも茂みに覆われない。
ここを見ると,昔の自分が甦るのだという。

何かが帰ってくる。
侵入した形跡を残すのはやめよう,見つからない方が無難だろう。

私は戻ることにした。
来た道を戻るには,土間から玄関へ出なければならない。
だが,玄関から何かが家に入って来た。
それは土間を歩き,そのまま左手の奥の方へ消えた。
それから続けて他にも何かが玄関から入ってきた。
こうやって週に一度,夕方の4時か4時半ごろに集まって,今でも何かを話し合っているようだ。
私は庭から茂みを抜けることにした。

背後で気配がした。
何かが手を振っている。
みんなが私を見送っている。

さようなら。
ありがとう。

またここに来よう。
その時に私がどんな姿かは,わからないけれど。
今の自分がどんな姿かも,わからないけれど。

かつては道路からも見えていた民家が,
藪に埋もれて今はかすかに屋根だけが見える。
賑やかだったあの景色は,畑の爺さんと,空の鳥たちが,知っている。

[完]


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